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第52話:(前編) 聖女の独り立ち、春を呼ぶハンマーの余韻

 白銀の大聖堂を包んでいた冷徹な魔力のベールが剥がれ落ち、代わりに入り込んできたのは、数十年ぶりにこの国を訪れた本物の「春」の気配であった。最上層の謁見の間の窓からは、急速に溶け出した雪が屋根を滑り落ちる重たい音が、断続的な歓喜の調べのように響き渡っている。リアムは、倒壊した玉座の残骸が散らばる床に膝を突き、使い慣れたパテと補強材を取り出して、枢機卿が暴走させたアームによって穿たれた壁の亀裂を、黙々と塞ぎ始めていた。


 彼は勝利の余韻に浸ることも、民衆からの称賛を浴びることも求めない。彼にとっての完工とは、単に敵を倒すことではなく、その現場が「正常に稼働し続けるための後片付け」までを完璧に済ませることに他ならないからだ。


「……よし、この柱の基部は魔力伝導率が落ちているけれど、物理的な強度はまだ保てている。地脈の逆流は止まったし、あとはこの国の吸気口(民の声)が詰まらないように、定期的なフィルター掃除(対話)が必要だね」


 リアムは独り言を呟きながら、崩れた瓦礫をハンマーの柄で一箇所にまとめ、危険な魔力漏れがないかを入念に打音点検して回る。その背中を、聖女の法衣を纏い直したセレスティアが、複雑な、けれど澄み渡った瞳で見つめていた。彼女の周囲には、主を失ってパニックに陥り、拠り所を求めて縋り付こうとする下級聖職者たちが、まるで沈みゆく船の乗員のように群がっていた。


「セレスティア様、どうかお慈悲を! 私たちは枢機卿の独断に従っていただけなのです! この国を、どうか貴女の聖なる魔力で再び繋ぎ止めてください!」


 彼らの嘆願は、セレスティアという新しい「主柱」への依存に他ならなかった。セレスティアは彼らの手を優しく、けれど毅然と払い、リアムの隣へと歩み寄った。彼女の手には、先ほど奪い取った黄金の教典が握られている。その歪んでいた回路は、彼女の浄化によって、今や誰にでも開かれた透明な魔力制御板マニュアルへとリフォームされていた。


「リアム様。……私に、この凍てついた国を導く強固な地盤があるのでしょうか。……枢機卿という歪んだ支柱を失った今、この国はあまりに脆く、瓦礫の山に見えてしまいますわ。……私一人で、この巨大な屋根を支えきれるのか、怖くて仕方がありませんの」


 セレスティアの声が微かに震え、リアムに向けられた視線には、かつての「依存」の残響が僅かに混じっていた。リアムは作業の手を止め、彼女の手にある杖の重心を、慣れた手付きで数ミリだけ微調整した。


「セレスティアさん。君の祈りは、もう誰からも熱を奪わない。……君自身が、この国の断熱材になって、みんなを包んであげればいいんだよ。……ほら、君の杖の音を聴いてごらん。もう、氷の軋みなんて聞こえないだろう?」


 リアムが彼女の杖を軽くハンマーで叩くと、清廉な、澄み切った共鳴音が広間に響き渡った。それは、不純物を取り除かれた彼女自身の魂の鼓動そのものであった。その音を聴いたセレスティアの背筋が、まるで見えないかすがいを打ち込まれたかのように、真っ直ぐに伸びた。


 その時、ルナマリアが車内から持ち出してきた通信盤が、小気味良い電子音を奏で始めた。


「ルナマリアより報告。……特定周波数の魔導共鳴を確認。……エルフの里の管理人より、竣工検査チェックの要請が入っています」


 通信盤のスピーカーから、遠く離れたエルフの森を守るエルナの、凛とした声が響いてきた。


『リアム、セレスティア。……こっちの里まで、北からの温かな地脈の微動が伝わってきたわよ。……どうやら、そっちの難攻不落の欠陥住宅も、無事に完工したみたいね。……おめでとう、セレスティア。貴方の国の春は、これからが本当の着工はじまりよ』


 エルナの声には、かつて同じように里に残る決断をした者だけが持つ、共感と連帯の温もりが宿っていた。彼女は、セレスティアが今感じている「孤独な管理人」としての重圧を誰よりも理解し、その建付けを支えるためのエールを送ったのだ。


「……ええ、エルナさん。ありがとうございますわ。……私も、貴方のように、自分の現場を愛し、守り抜く覚悟を決めましたわ。……リアム様がいなくても、この国が二度と凍りつかないように、私が最高の建付けを守ってみせます」


 セレスティアの返答を聞き、リアムは満足げに頷くと、一人で立ち上がり、作業着の埃を払った。彼は窓の外、雪が溶けて石畳の顔を出した聖都の街並みを一瞥し、それから視線を、中庭に停泊させている馬車へと向けた。


 そこには、次なる現場を求めて、一人で御者台に座り、サスペンションの歪みを直す自分の姿が予感として浮かんでいた。完工した現場に、職人が長居することはない。セレスティアが「独り立ち」を宣言した今、自分のハンマーはこの国の屋根を離れ、次なる不具合の元へと旅立たねばならない。


「……よし。アフターケアの窓口(魔導鈴)は設置済みだ。……セレスティアさん、あとは任せたよ。……僕は少し、馬車のソロ・メンテナンスをしてくる」


 リアムはセレスティアの、名残惜しげな、けれど誇らしげな視線を背中で受け止めながら、広間を後にした。一人の足音が、かつての喧騒を洗い流した静かな大聖堂に、規則正しいリズムを刻んで消えていく。それは、聖女が真の管理人へと脱皮し、職人が次なる「現場」へと意識を切り替えるための、静かなるカウントダウンであった。


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