第52話:(後編) 聖女の独り立ち、春を呼ぶハンマーの余韻
聖都「銀盤」を覆い尽くしていた数千年の停滞、その象徴であった厚い氷層が、石畳から剥がれ落ちる乾いた音を立てて崩れ去っていく。中央広場に立つリアムは、作業着の袖で額の汗を拭い、女神像の台座に埋め込まれた魔導回路の最終点検を行っていた。彼が新しく組み直した熱循環回路は、今や一寸の狂いもなく、凍土と化していた平民区の隅々まで、大聖堂から奪い返した温かな魔力を血管の如く送り届けている。
リアムが足裏で感知するのは、地脈を通じて伝わってくる人々の歓喜の振動だった。周囲では、かつて寒さに震え、死を待つだけだった住人たちが、信じられないものを見るように自らの温かな掌を何度も見つめ、それから一斉に、壇上で黄金の教典を掲げる聖女へと、魂を揺さぶるような感謝の祈りを捧げていた。
セレスティアは、リアムがリフォームした「熱を循環させる石像」の横で、その眩いばかりの光を全身に浴びていた。彼女が手に持つ黄金の教典は、もはや特権階級が利権を隠すための暗号盤ではない。それは、誰にでも平等な温もりと救いを約束する、この国の新しい設計図へと、彼女自身の魔力によって書き換えられている。リアムは群衆の端に立ち、彼女の放つ聖なる光が、もはや誰かへの依存ではない、自立した「主柱」としての確固たる強度を持っていることを、職人の冷徹な眼で最終検品した。
「……よし。建付けに狂いはない。セレスティアさん、これでこの国の冬は、本当の意味で完工だね。……あとは、君という管理人が、この家をどう守っていくかだ」
リアムが短く、けれど深い信頼を込めて告げると、セレスティアは民衆への慈愛に満ちた微笑みを一瞬だけ崩し、彼の方を向いて深く、気高く頷いた。それは聖女としての公務の完遂を告げる合図であり、同時に、一人の女性としての「最後のアフターケア」という名の、あまりに重く熱い時間の始まりを告げる合図でもあった。
出発を控えた次元跳躍馬車の内部は、極寒の屋外とは対極の、息苦しいほどの静寂と密やかな熱に満たされていた。リアムが御者席の計器類に指先を触れ、魔導回路の最終同期を行っていると、背後の居住区から、先ほどまでの重厚な正装を脱ぎ捨て、薄いシルクのローブを纏っただけのセレスティアが、音もなく姿を現した。
車内の魔導ランプが、彼女の白皙の肌を妖しく照らし出し、香油の甘い匂いが狭い空間を一瞬で支配する。セレスティアは、驚きに目を見開くリアムの返答を待たず、拒絶を一切許さない力強さで、彼の腕を掴んで助手席へと押し座らせた。
「リアム様。……出発の前に、貴方自身のオーバーホールをさせていただきますわ。聖女として、そして……貴方の管理を、誰にも譲らずに任された一人の女としての、最後のわがままです」
彼女の両手から溢れ出す聖なる光が、車内の空気そのものを白銀色に染め上げていく。セレスティアは、リアムの無骨で節くれだった右手を自らの膝の上に乗せると、一本ずつ、その指先の節々に溜まった魔力疲労を、慈しむように自らの掌で包み込んだ。リアムがその熱に当てられ、不自然に手を引こうとした瞬間、彼女はその指先を、骨が軋むほどの力で握りしめた。
「貴方の手は、世界を直すための大切な資材ですわ。……どうか、自分自身の建付けも、時々は労って差し上げてくださいな」
その言葉は、聖女としての慈愛の響きを持ちながらも、その奥底には、決して逃がさないという激しい執着が、呪詛のように刻まれていた。セレスティアは、リアムの煤け、角質の固くなった指先を一つずつ自らの口元へと運び、そこに自分の魔力を、魂の深層まで届くほど深く、深く浸透させていった。
彼女の熱い吐息がリアムの皮膚を濡らし、聖女という仮面の奥に隠されていた、一人の女としての剥き出しの独占欲が露わになる。彼女はリアムの手の甲に浮き出た血管を、自らの爪でなぞるように愛撫し、言葉にならない誓いを彼の肉体に刻み込んでいった。
「……セレスティアさん、もういい。君の魔力が勿体ない。……これから国を導く君こそ、その力を温存しておくべきだ」
「いいえ。……私を突き放そうとしないでください。エルナさんは、貴方に『一人で立てる』と認められて、あの森に残る道を選んだ。……でも、私はそれほど聞き分けの良い女ではありませんわ。……貴方の指先に、私がいなければすぐに壊れてしまうという、一生消えない『傷』を、私の唇で刻んでおきたい。……そうすれば、貴方は不具合が起きるたびに、私の元へ戻ってこざるを得ないでしょう?」
「……それは、職人に対する、あまりに重すぎる強制発注だね。……でも、セレスティアさん。君が僕に依存しているんじゃない。……僕の方が、君のその狂おしいほどの熱がないと、もう正しくハンマーを振るえなくなっているのかもしれない」
リアムが自嘲気味に、けれど隠しきれない情愛を込めて呟くと、セレスティアは満足げに瞳を細め、彼の掌を自らの頬に、そして胸元に強く押し当てた。その肌の驚くほどの柔らかさと、リアムの職人としての硬質な手が、暗い車内で残酷なまでのコントラストを描く。それはエルナが見せた静かな自立とは異なる、重く、熱く、そして甘美な「強制メンテナンス」であった。
セレスティアは、リアムの指先の関節一つ一つを、まるで壊れ物を扱うように、それでいて自分だけの所有物であることを誇示するように、深く、密やかに愛で続けた。彼女の涙がリアムの掌に落ち、弾ける。その一滴一滴が、新しい国の地盤を固めるセメントのように、二人の絆を、以前よりも遥かに歪で、けれど決して壊れない形へとリフォームしていった。
やがて、セレスティアは名残惜しげにリアムの手を放し、最後に彼の胸元、心臓の真上に、目に見えない聖印を深く刻み込んだ。それはエルナに施した「職人刻印」を凌駕するほどに、二人の生命線を直接繋ぎ合わせる、鉄壁の保守契約であった。
「……さあ、行ってください、私のリアム様。……貴方がどこで誰を直そうと、貴方の指先の『芯』を握っているのは、この私であることを、一秒たりとも忘れないでくださいな」
セレスティアを聖都の門に残し、リアムが一人で馬車の御者席に座った時、車内にはまだ、彼女の香油の重たい匂いと、肌を焼くような執着の熱気が渦巻いていた。リアムは震える指先でハンドルを握り、そこに残された彼女の唇の感触を、設計図の最優先事項として、自らの魂に書き加えた。
「……よし。重心の狂い(重すぎる愛着)は、もう設計図の織り込み済みだ。……さあ、帝都へ帰ろうか」
リアムがアクセルを踏み込むと、馬車は白銀の雪原を切り裂き、次元の霧の中へと滑り込んでいった。バックミラーには、雪解けの春を迎えた聖都の入り口で、いつまでも動かずに立ち尽くし、遠ざかる職人の背中を、誰にも譲らぬ執着の瞳で見送り続ける、一人の聖女の姿が映っていた。
聖教国編、完全完工。
馬車は、次なる「不具合」が待つ帝都の空へと、孤独な、けれど消えることのない熱を伴って、静かに加速していった。




