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第49話:(前編) 聖女の帰郷、白銀の教典のリフォーム

 帝都宿舎の長い廊下に、深夜の冷気が静かに忍び込んでいた。エルナ不在という事実がもたらした騒がしい再会の余韻が、それぞれの自室の扉の向こう側へと吸い込まれて久しい時間。リアムは一人、寝静まった宿舎の回廊を、使い慣れた点検用ハンマーの柄で軽く叩きながら歩いていた。


 壁の継ぎ目、階段の蹴込み、そして魔力灯の台座。リアムの鋭敏な聴覚は、一人が抜けたことで生じた僅か一ミリの「荷重の偏り」が、建物全体の振動係数を微妙に狂わせているのを正確に捉えていた。エルナという管理者がいなくなったことで、宿舎の魔力循環には、まるで見えない煤が溜まったかのような微かな淀みが生じている。


「……やはり、一人が抜ければ構造全体のバランスが崩れるのは道理だ。彼女が担っていた調湿と防音の機能が止まっただけで、この家の気密性がこれほどまでに落ちるものかな」


 リアムは独り言を呟き、階段の手摺りのネジを半回転だけ締め直した。物理的な数値の上では、この宿舎はまだ十分に堅牢だ。だが、職人としての直感は、この小さな「隙間風」を放置すれば、いずれは住人たちの心の建付けにまで影響を及ぼすと警告していた。この空白をどうリフォームすべきか。リアムが次の点検箇所へ足を向けようとしたその時、背後の闇から柔らかな光が溢れ出した。


「リアム様……。まだ、起きていらしたのですわね」


 振り返ると、そこには寝間着の上に薄いガウンを羽織ったセレスティアが立っていた。彼女の持つ聖なる魔力が、深夜の廊下を淡い白銀色に染め上げている。その瞳には、再会の喜びだけでは拭い去ることのできない、深い憂いと焦燥が混じり合っていた。


「セレスティアさん。どうしたんだい、こんな時間に。……寝心地が悪かったかな。ベッドの傾斜なら、今すぐ微調整できるけれど」


「いいえ。部屋の建付けは完璧ですわ。……ただ、先ほどのエルナさんのお話を伺ってから、私の胸の奥に、得体の知れない隙間風が吹き抜けて止まらないのです。……彼女は、一人の管理人として認められ、貴方と対等な契約を交わした。……それに比べて、今の私はどうでしょうか」


 セレスティアはリアムの傍らまで歩み寄り、その大きな掌を、縋るような、けれど確かな意志を込めて見つめた。彼女にとって、エルナの自立は祝福であると同時に、自らの「停滞」を突きつける残酷な鏡でもあった。彼女は、リアムに守られるだけの住人であることに、いつの間にか耐えがたい「構造的な不安」を感じ始めていた。


「リアム様。……私にも、教えてください。この家を、そして貴方を支えるための、正しい管理の設計図を。……私も、エルナさんのように、貴方の隣で胸を張って『異常なし』と報告できる、一級の助手になりたいのです」


 セレスティアの切実な申し出に、リアムはハンマーを握る手に力を込めた。彼女の内に秘められた、爆発しそうなほどの独占欲と、それを上回る「貢献への渇望」。その二つの力が、彼女という建材を内側から激しく軋ませている。リアムが何かを答えようとしたその瞬間、静まり返った玄関のポストに、深夜便の到着を告げる重たい金属音が響いた。


 リアムはセレスティアと共に玄関へと向かい、投函されたばかりの一通の親書を拾い上げた。白銀の封蝋が施され、雪の結晶を象った紋章が刻まれたその書面は、手に取るだけで指先が凍りつくような、異様な「冷気」を放っていた。セレスティアが息を呑み、その封蝋を震える指先でなぞった。


「……私の故郷。聖教国の大聖堂からの、緊急要請ですわ。……でも、この魔力の波形は、一体……」


 リアムが慎重に封を切り、中にある羊皮紙を広げると、そこには常軌を逸した異常事態が記されていた。大聖堂の地下から発生している不可解な地鳴りと、何よりも、供えられた「白銀の教典」の文字が、物理的に凍りつき、解読不能になっているという怪現象。


 リアムは書面を食い入るように見つめ、その不自然な「吸熱反応」の記述から、即座に現場の欠陥をプロファイリングした。


「教典の文字が凍っているんじゃない。……教典という名の『エネルギーの出口』が、どこかで強引に塞がれているんだ。行き場を失った祈りの魔力が、逆流して周囲の熱を奪っている。……なるほど、祈りの重圧で土台が沈み、利権という名の排水が詰まっているね。セレスティアさん。君の故郷は今、内側から完全に凍結しかけているよ」


 リアムの診断を聞き、セレスティアの顔からさっと血の気が引いた。教典が凍るということは、その国の精神的な支柱が、機能不全を起こしていることに他ならない。彼女はリアムの作業着の袖を強く握りしめ、自らの過去という名の「歪んだ設計図」と向き合う覚悟を決めた。


「リアム様。……お願いです。私の祈りの場所を、貴方のそのハンマーで叩き直してください。……このままでは、私の故郷は、冷たい氷の墓場になってしまいますわ。……今度こそ、私が貴方の最高の助手として、この不具合を解体してみせます」


 セレスティアの瞳から迷いが消え、聖女としての輝きが宿舎の玄関を白く染め上げた。リアムは彼女の震える手を、自身の無骨な掌でしっかりと包み込み、力強く頷いた。


「よし。神様を呼ぶ儀式の前に、まずはその凍りついた配管を熱くリフォームしに行こうか。……セレスティアさん。君の故郷の冬を、僕が根こそぎ終わらせてあげるよ」


 二人の間に通った「着工」の意志が、深夜の宿舎の空気を一変させた。リアムが次なる巨大な「闇」を解体するための図面を頭の中で描き始めた頃、帝都の夜空からは、季節外れの白銀の雪が、静かに舞い落ち始めていた。


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