第48話:(後編) 聖女の帰郷、白銀の教典のリフォーム
リビングの暖炉で爆ぜる薪の音だけが、不自然なほど明瞭に室内に響き渡っていた。リアムが語り終えた「エルナの自立」という名の最終報告は、宿舎に残っていた四人の胸の奥底に、目に見えない巨大な風穴を開けたかのような喪失感を遺していた。
セレスティアは、リアムがテーブルに置いた共鳴石の鈍い輝きを、祈るような手付きで見つめていた。彼女にとってエルナは、公女としての重圧を分かち合える唯一の親友であり、同時にリアムという一人の男性を巡る、最も高潔で手強い好敵手でもあった。その存在が物理的にこの宿舎から消え去ったという事実は、家の中心を支えていた大黒柱が突如として引き抜かれたような、足元の覚束なさを彼女に強いていた。
「……そうですか。エルナさんは、もうここには戻らない。……いえ、戻る必要がないほどに、立派な主になられたのですわね。……彼女の決断を誇りに思う反面、このリビングの空気が、これほどまでに薄く感じられるなんて。……私はまだ、自分の心の断熱が足りていなかったようですわ」
セレスティアが零した言葉は、その場にいた全員の本音を代弁していた。魔導演算機の前で静止していたルナマリアが、伏せていた顔を上げ、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。彼女の視線の先にあるモニターには、エルナが担当していた宿舎内の魔力循環管理のログが、更新を停止したまま静かに点滅を繰り返していた。
「物理的な数値で見れば、彼女一人分、約五十キログラムの質量がこの家から消えたに過ぎないわ。けれど、彼女が担っていた『緩衝材』としての機能が失われたことで、私たちの間の動線は、今この瞬間も激しく衝突(干渉)し始めている。……リアム、貴方が一番それを感じているはずよ。……この家の重心が、僅かに狂っていることを」
ルナマリアの指摘通り、リアムはソファに深く腰掛けながら、宿舎全体の「建付け」に生じている微かな歪みを肌で感じ取っていた。エルナは単なる助手ではなかった。彼女は、個性の強いヒロインたちが集うこの宿舎において、精霊の加護による静かな「調湿」と「防音」を司る、目に見えない高性能な建材そのものだったのである。
その沈黙を破ったのは、ベアトリスがキッチンから運んできた、湯気の立つ大ぶりのティーポットであった。彼女は不器用な手付きで全員のカップに茶を注ぎ始めたが、その香りはエルナが淹れていた繊細なハーブティーとは似ても似つかない、魔界の滋養強壮に特化した、刺すような刺激臭を放っていた。
「……しけた面をしていなさいな。一人が抜けたなら、残った者でその隙間をパテで埋めればいいだけのことよ。ほら、リアム。貴方の顔色は、今にも油切れを起こしそうなほどに青白いわ。私の特製スープで、内側から配管を焼き直してあげるから、文句を言わずに飲み干しなさい」
「主殿、ベアトリスの言う通りだ。……私にできるのは剣を振るうことだけだが、主殿の背中を守る盾の強度は、以前の倍に鍛え直してある。……エルナ殿がいない分、私が二倍の荷重を引き受ければ、この家の強度は保たれるはずだ」
カミラが力強く拳を握り、リアムの肩を叩く。彼女たちの言葉は荒っぽく、エルナのような繊細な気遣いには欠けていたが、そこには「欠けたパーツを嘆くのではなく、今ある資材で最強の家を組み直す」という、無骨で真摯な決意が宿っていた。
セレスティアは、ベアトリスが差し出した苦すぎる茶を一口啜り、その刺激に咽せながらも、小さく笑みを漏らした。彼女はリアムの汚れた作業着の袖をそっと引き、自らの聖なる魔力で、解けかかっていた刺繍の糸を一本ずつ丁寧に紡ぎ直していった。
「……ええ、そうですわね。悲しんでいる暇など、私たちにはありませんわ。……リアム様、エルナさんの不在を寂しがる時間は、今この瞬間で完工にしましょう。……明日からは、私が貴方の身の回りの建付けを、彼女以上に完璧に整えて差し上げます。……不器用かもしれませんが、これが私の、新しい管理人としての宣戦布告ですわ」
セレスティアの瞳には、依存から脱却し、自らの意志でリアムを支えようとする強い光が宿っていた。それはエルナが里で見せた「自立」とはまた別の、この宿舎という現場を愛する者としての、新しい定礎の打ち込みであった。
リアムは彼女たちの不器用で、けれど熱い想いが込められた「新しい日常」を受け入れ、苦い茶を飲み干した。一人で走った帰路の冷たさは、もうどこにもない。エルナがいない寂しさは、消えることはないだろう。けれど、その空白を埋めようと必死に手を伸ばす彼女たちの存在が、宿舎という名の巨大な構造体を、以前よりも粘り強く、しなやかなものへと再構築し始めていた。
夜が更け、リアムはリビングの窓を閉め、建付けを確認しながら一つ頷いた。
外は冷たい風が吹き始めている。だが、この屋根の下には、新しい役割を受け入れ、共に歩もうとする仲間たちの確かな熱が満ちている。
エルフの森編で得たものは、里の再生だけではない。
一人が去り、残った者たちが互いの絆をより強固に繋ぎ直す。
その「心のフルリフォーム」を終えた職人は、静かな眠りの中へ、自身の感覚を安らかに委ねていった。




