第48話:(前編) 聖女の帰郷、白銀の教典のリフォーム
帝都の宿舎の扉が、乾いた音を立てて開いた。夕闇が廊下の隅々にまで侵食し始めた時間帯、リビングではセレスティア、ベアトリス、カミラ、そしてルナマリアの四人が、それぞれの日常という名の穏やかな時間を共有していた。セレスティアは古びた教典の写本をめくり、ベアトリスは暖炉の前で魔界の果実を剥き、カミラは剣の目釘の緩みを点検し、ルナマリアは演算機の微細なノイズを精査している。
だが、その平穏な空気は、一人の男が足を踏み入れた瞬間に、物理的な衝撃を伴って凍りついた。
リアムが一人で、作業着の肩に旅の埃を積ませたまま、静かにそこに立っていたからだ。
リビングにいた四人の動きが、まるで時を止める魔術をかけられたかのように一斉に静止した。セレスティアが手に持っていた栞を床に落とし、ベアトリスの手元のナイフが果実の皮を削ぐのをやめる。彼女たちの視線は、リアムの姿を捉えた後、吸い寄せられるように彼の背後にあるはずの「空白」へと向かった。
そこには、いつも凛とした佇まいでリアムの半歩後ろを歩いていた、銀髪の公女の姿がどこにもなかった。その絶対的な欠落が、室内の空気の重力を一変させ、逃れようのない違和感として全員の肌を刺した。セレスティアが弾かれたように立ち上がり、リアムの周囲を、あるいは玄関の向こう側の闇を何度も確認するように視線を彷徨わせた。
「リアム様……。お一人……なのですか? まさか、道中で何か不具合でも、あるいは、エルナさんの身に何か取り返しのつかない設計ミスでも起きたのですか?」
セレスティアの声は、かつてないほどに狼狽し、震えていた。彼女はリアムに駆け寄り、その両手で彼の作業着の袖を強く、白くなるほどに握りしめた。彼女の瞳には、親友を案じる恐怖と、それ以上に、説明のつかない「構造の崩壊」に対する戸惑いが溢れ出している。
リアムは疲れた身体をソファに深く沈め、大きく一つ息を吐き出すと、集まってきた彼女たちの視線を真っ向から受け止めた。彼は懐から、エルナが里に残ることを決意した際に交わした、職人刻印の共鳴石をそっと取り出し、テーブルの上に置いた。
「大丈夫だよ、セレスティアさん。エルナさんは元気だ。……彼女は、自分の意志で、あの森の永久管理人として残ることを決めたんだ。僕は、一人の助手としての彼女を解体し、一人の自立した家主として、あの現場を引き渡してきたんだよ」
リアムの言葉は、職人としての冷徹な納得と、師としての深い満足感に満ちていた。彼は、エルナがいかにして自らの「依存」という名の隙間風を塞ぎ、自分の足で立ち、里を守るための強固な主柱へとリフォームを遂げたのか。その工程の一つ一つを、一人の男としての敬意を込めて、静かに、けれど丁寧に語って聞かせた。
リアムの語るエルナの「自立」という名の施工報告を、四人は固唾を呑んで聴き入っていた。セレスティアは、自分よりも先に「独り立ち」を認められ、リアムと対等な盟友としての契約を交わしたエルナに対し、祝福の念と共に、胸の奥を鋭く抉られるような微かな嫉妬と焦燥を抱かずにはいられなかった。
「……そうですか。彼女は、もう守られるだけの雛鳥ではないのですね。……リアム様に、一人の管理人として認められた。……それは、私たちがまだ手にしていない、最高に強固な建付けを手に入れたということですわね」
セレスティアが呟いた言葉には、親友への誇らしさと、置いていかれた者の切なさが混じり合っていた。エルナという巨大な鎹がいなくなった現実が、宿舎の日常のバランスを僅かに歪ませ、それぞれの胸の中に、新しいポジションへの渇望を呼び起こしていく。
「それならば、リアム。……エルナが不在の間、貴方の生活基盤を整えるのは、私の義務になりますわね。貴方の栄養配管を管理し、身体の重心を支えるのは、これからはこのセレスティアが引き受けさせていただきますわ」
セレスティアが、決意を秘めた瞳でリアムの大きな掌を両手で包み込んだ。彼女は、エルナがいないという空白を、自分が完璧なメンテナンスで埋めてみせると言わんばかりに、強く、その温もりを確かめるように握り締めた。ベアトリスやカミラもまた、リアムの「管理権」を巡って静かに火花を散らし始め、リビングは一瞬にして、リアムを巡る新たな「女心という名の不安定な現場」へと変貌を遂げた。
リアムは彼女たちの熱量に気圧されながらも、一人で走った長い帰路で感じていた、あの耐え難い「重心の狂い」が、この騒がしい喧騒によって少しずつ埋め合わされていくのを感じていた。エルナがいない寂しさは、決してパテで埋められるようなものではない。けれど、その欠落を埋めようとする彼女たちの存在もまた、自分の設計図には欠かせない大切な資材なのだと、リアムは改めて認識し直していた。
「……さて。一人で走るのには少し飽きていたところだ。これからは、君たちの賑やかな振動に耐えられるように、僕自身の建付けも少しリフォームしておかないといけないね」
リアムの言葉に、リビングの空気がふっと和らぎ、柔らかな笑い声が夕闇の宿舎を満たしていった。移動も準備も、今はまだ必要ない。ただ、この温かな屋根の下で、欠けたパーツの重みを共有し、新しい日常の定礎を築く。風の里での大工事を終えた職人は、仲間たちの温もりの中に、自身の感覚を深く繋ぎ止め、静かに夜の更けるのを感じていた。




