第32話:(後編) 聖域の守護者と正妻の矜持
帝都を支える黄金の支持杭が地底深くへと打ち込まれ、未曾有の崩壊危機がひとまずの沈静を見せた宿舎の深夜。地上の狂騒が嘘のように静まり返った廊下で、白銀の重装甲を纏ったまま一寸の乱れもなく直立不動の姿勢を保つカミラと、その傍らで静かに祈りを捧げるセレスティアの二人が、主の安眠を守るための無言の警備に就いていた。
リアムが地盤沈下を止めるために放った規格外の魔力の余波は、彼自身の肉体を深く消耗させていた。主寝室の扉の向こうから聞こえる穏やかな寝息だけが、この異常なほどに整えられた静寂の中での唯一の福音であった。カミラは自身の心拍数を極限まで抑え、鎧の継ぎ目から漏れ出る僅かな金属音すらも殺して、廊下の闇を射抜いていた。
彼女の鎧の表面を流れる月光は鏡面のように磨き上げられており、微かな埃の付着すら許さない。カミラは自身の心拍数すらも管理し、寝室から漏れ出るリアムの安らかな寝息の波形を乱さないように細心の注意を払っていた。その直立する姿は、まるで職人が鍛え上げた一本の揺るぎない大黒柱そのものであった。
「カミラさん。貴女も少しはお休みになったらどうですの。地盤沈下を食い止める際、貴女の盾がどれほどの衝撃を受けたか、私は聖女の眼で見ておりましたわよ」
セレスティアが低く、けれど鋭い声で切り出した。彼女の纏う聖衣はリアムが施した洗浄魔法により、激闘の後とは思えないほど白く輝いている。
「断る、聖女殿。主殿が施したこの宿舎のリフォーム、その美しさを汚すノイズの進入は、外壁たる私が許可しない。私の盾の傷は、主殿の指先がひとたび触れれば、以前よりも強固に再生される。それは私にとって苦痛ではなく、至上の報酬だ」
カミラの言葉は鉄のように硬く、一切の妥協を許さなかった。彼女にとってリアムの安眠を妨げる者は、たとえ微細な空気の歪みであっても排除すべき欠陥に他ならない。鋼鉄の意思で己を律する彼女の呼吸は、リフォームされた宿舎の空気清浄機能と完璧に同期しており、その存在自体が精巧な防衛設備の一部と化していた。
「ふふ、相変わらずですわね。ですが、リアム様のアフターケア(心の修繕)を担当するのは、私という正妻の役割ですわ。貴女のような無骨な鉄塊が扉を塞いでいては、彼が目覚めた瞬間に目にする景色が味気ないものになってしまいますわよ」
「正妻、か。笑わせるな。主殿が求めているのは、機能的な安らぎだ。貴女のその過剰なまでの装飾は、今の主殿の疲労した魔力回路には、建付けの悪い扉のように重すぎる」
二人の視線が火花を散らした。本来なら建国祭を共に戦い抜いた戦友であるはずの彼女たちが、リアムという一人の男を巡っては、帝都の腐敗した貴族たちよりも遥かに狡猾で、執念深い独占欲を露わにする。彼女たちの背後にある扉の向こうでは、リアムが幸せそうな寝言を漏らしていたが、その平和な響きとは裏腹に、廊下の空気は冷徹なまでの緊張感に包まれていた。
「なんですって。私の祈りが、リアム様の設計図に不要だとおっしゃるの。彼の魂の磨耗を一番近くで診てきたのは、私ですわよ」
「ならば問うが、聖女殿。貴殿は主殿が今夜、寝言で誰の名前を呼んでいたか知っているか」
カミラの問いに、セレスティアの眉がピクリと跳ねた。
「なんですの、それは」
「『あぁ、ここの壁紙の継ぎ目が』だ。貴殿でも、私でもない。主殿の脳内を占拠しているのは、常にこの世界の建付けそのものだ。私たちはその一部として、どれだけ完璧なパーツになれるかを競っているに過ぎん。私たちが主殿に選ばれる理由は、女としての誘惑ではなく、どれだけ優れた資材になれるか、だ」
カミラの冷徹な分析に、セレスティアは一瞬の沈黙の後、小さく、けれど確かな独占欲を込めて笑った。
「ええ、その通りですわ。だからこそ、私はこの宿舎全体の空気を、私の浄化魔法でリアム様好みの湿度にリフォームし続けているのです。彼が呼吸をするたびに、私の愛を感じるように。貴女の盾が彼を守るように、私は彼の吸い込む空気そのものになりたいのですわ」
「やはり貴殿は、私よりも遥かに性質が悪いな」
カミラは兜の中で苦々しく、けれどどこか敗北を認めるような吐息を漏らした。彼女たちは知っている。リアムの職人としての狂気が、自分たちをただの住人やパーツとして見ているからこそ、その最高の手入れを受けられる今の時間が、何物にも代えがたい至福であることを。一人の男が放つ職人気質の狂気と誠実さは、彼女たちの心を、逃れられないほどの熱い依存へと、着実にリフォームし続けていたのである。
「明日からの帝都改修、女狐たちの妨害がさらに激しくなりますわよ。特に、あのアークライト家の残党や、リアム様の技術に群がる浅ましい令嬢たち。彼を一人にすれば、すぐにでも不適切なリフォーム(誘惑)を仕掛けてきますわ」
「分かっている。主殿の視界に入る不純物は、私がすべて解体して排除する。貴殿は、主殿の背後に不必要なノイズが紛れ込まぬよう、精神の結界を張り続けてくれ」
騎士の武力と、聖女の浄化。リアムを守り、そして独占するという一点において、彼女たちの間に奇妙な、けれど鉄壁の共同戦線が構築されていく。二人は肩を並べて廊下の闇を見つめた。宿舎のテラスでは、何も知らないリアムが、明日はあの玉座の固定ボルトを締め直してあげないとな、と幸せそうな寝言を漏らしていた。
「ええ、約束しますわ。リアム様を、あの汚れた帝都の連中に一ミリも触れさせはしません。彼をリフォーム(独占)していいのは、私たちだけですもの」
セレスティアは、主寝室の扉にそっと手を触れた。そこにはリアムが施した、微かな、けれど確かな温もりと、住人への慈愛が宿っていた。深夜の廊下。最強の盾と、最も慈悲深い聖女は、主の眠りを守るために再び深い静寂へと戻っていった。リアムの声一つで静止する彼女たちの姿は、統制の取れた建築物のようであった。夜の帝都。リアムが知らないところで、彼の住人たちは、互いに牽制し合いながらも、一歩ずつ新しい家族の建付けを馴染ませていた。
それはまだ歪でぎこちない形ではあったけれど。リアムという唯一の職人の手にかかれば、いつか最高に心地よい家の一部になることが、月明かりの下で約束されているようだった。二人の守護者が並び立つ背中は、帝都のどの城壁よりも頼もしく、温かな未来を予感させていた。カミラは深夜の闇を見つめ、セレスティアは地脈の鼓動を聴く。
リアムがリフォームしたこの空間は、彼を愛する者たちの献身によって、今夜も完璧な安らぎを保ち続けていた。カミラがわずかにセレスティアの気配を感じ、聖女が騎士の意思を汲み取った時、最強の盾と最も清浄な光は、主の夢を護るために再び深い静寂へと戻っていった。




