第三章 17 エレカ・ヤヒメ
その日、エレカはティアの飼い犬テテを散歩させていた。ててててと歩くからテテらしい。ほとんど居候状態のエレカはテテの世話をして毎日を過ごしていた。日中は家から誰もいなくなってしまうのでテテは寂しくしていたらしく、ずっといるエレカによく懐いてくれた。
「エレカー!」
声をかけられて振り向くと、ホバーボードに乗ったティアに追い抜かれた。その楕円形のボディを見て、エレカは目を見開いた。
「すごっ、ホバボ持ってたんだね」
「そ。家族みんなでちょっとずつお金貯めて買ったんだ。学校に乗ってっちゃダメだから、たまにしか乗ってないんだけど」
ホバーボードは空力を用いて浮遊する軽車両で、脳波で操作するミクシアン専用の乗り物だった。高価なのでエクソスの住民ではなかなか手が出ず、ミクシアンの少ないストラトやいないトロポスにはあまり普及していない、ある意味でレアな代物だ。
「乗ってみる?」
「いいの? それじゃあ……」
テテのリードを預けて、エレカは初めてホバーボードに乗ってみる。最初は浮遊感が怖かったけど、本当に思った通りに動いてくれるので、あっという間に慣れてしまった。浮力は高くても地上から三十センチ、速度は六十キロとか出るらしいが、自動運転と同じ技術で安全面は確保されているし、それ以前に身体が恐怖感を覚えて勝手に速度が落ちる。
「これ、面白いね」
ついティアの家の前まで乗ってきてしまったエレカは、後からテテを連れてきたティアに言った。そんなエレカを見て、ティアはくすくすと笑う。
「エレカがそんなはしゃぐところ初めて見たかも」
「あっ……そ、そんな、だった?」
「うん。でも、良かったよ。元気になって。最初会った時はもう、次の日には死んじゃいそうな顔してたからさ」
ティアがテテの足の裏を拭きながらそう言うので、エレカは息を呑んだ。そうだった。たったの一週間で、あの日の絶望的な気分すら思い出せないようになっている自分に驚いた。それだけ、ティアの家で暮らす日々は温かく、心地が良かったのだ。
「……うん。あの時は声かけてくれて、ほんとにありがとう」
「いーよいーよ。あ、そういえばさ、お父さんの知り合いの工場が人募集してるんだって。ほんとは高卒相当の人が欲しいらしいんだけど、エレカなら口きかせていけるようにしてくれるって。どうかな」
テテのお尻まで拭き終えたティアが、立ち上がってエレカを見る。
「そ、そうなんだ……」
その提案にエレカは曖昧な反応を返してしまう。浮き草のようなエレカにとって、それは是が非でも掴むべき求人だったが──やはり、頭を過ったのは「リズカード」のことだった。
「……ごめん、本当に嬉しいんだけど、ちょっとだけ、考えさせてもらってもいいかな」
「うん、わかった。でも、なるべく早めに返事ちょうだいね」
「うん……」
エレカは短く言うと、家に入り、自分用に宛がわれている部屋に向かう。もう仕事を得て家を出たティアの兄が使っていた部屋らしい。その隅、控えめに置かれた荷物の中から、スマートデバイスを取り出す。あの日、電源を落としてから一度もつけないでいた。
エレカは深呼吸をすると、電源を入れようと目を瞑る。だが──どうしてもできなかった。あの日の絶望や恐怖、不安や怒りが全て、この板の中に詰まっている。今、フタを開けばまた「次の日には死んじゃいそうな」気持ちになってしまうかも知れない。その怖れがエレカに精神的な制止をかけた。
「……ダメだ」
エレカは呟くと、鞄からバスタオルを引っ張り出す。つい乱暴な手つきになって、鞄の中身がボトボトと漏れてしまったが、構わずシャワー室へと向かった。服を脱ぎ、まっさらな気持ちで熱いお湯を浴びる。自分の輪郭が顕わになっていくような感覚に身を委ねる。
ふと、足下を見ると、きらきら輝くヴィス粒子が排水口に飲まれていくのが目に入った。
もったいない──と思ったが、別にいいか、という投げやりな思いが勝って、そのまま流れるに任せてしまう。
結局、この体質の秘密はわからなかったが、それもなんだかどうでもよかった。わかったところで何になる? 例えば、魔法が使えたりしたら嬉しいけど──リズカードみたいにうまくは使えないだろうな、と考えてしまう。
そのリズカードもエレカがいなければ魔法は使えない。その罪悪感がエレカの胸を突いた。
「……ざまーみろ」
エレカは露悪的に呟く。この街で見知らぬ他人を助けるような人にロクな奴はいない。だから、良心の呵責を覚えないようにそうやって突き放すのだ。それがばあちゃんの教えだった。
「ざまあみろ、ざまぁみろ、ざまーみろ……」
エレカは繰り返し口に出す。そうしているうちに、ストラトでの危うく慌ただしい日々が、遠のいていくような気がする。そのうち、諦めるように決心がついた。
……就職しよう。それで、ここの家族の優しさに甘えて暮らそう。
いつかみんな、いなくなってしまう、その日まで。
シャワー室を出て部屋に戻ると鞄のあたりが散らかっていた。タオルを雑に出したせいだ。溜め息を吐きつつ、整頓しようと屈み込んだ時だった。
「……え?」
それを見て、目を疑った。これがこんなところにあるわけがない、なのに──。
エレカは震える手でそれを拾い上げる。先端の方に複雑な装飾が施されていた、薄く長い金属片──フーロが大事な両親に渡すと言っていたはずの「リズカード」のカギだった。
「ど、どうして……なんで、なんで私なんかにっ……」
フーロとの別れ際を思い出す。彼女は控えめに鞄に触っていたけれど、あの時、これを鞄にこっそり入れていたの? いつでもエレカが戻ってこられるように? あんな酷いことを言っちゃったのに? 高いお金を払ってつけた錠のカギを? 私が戻らなかったらどうするつもりだったの? 引退した両親と暮らす時に渡す予定だったものじゃないの?
──家族よりも、私の方が大事なの? フーロさん……。
視界に涙が溢れ、ぽたぽたと頬を伝って落ちていく。小さなそのカギを両手でぎゅっと握りしめて、エレカは泣いた。冷たくてちっぽけなその金属片が、無性に愛おしかった。
「フーロさん……」
エレカはデバイスを手に取った。躊躇なく電源を入れる。OSが立ち上がり、少ししてドバっと空白の一週間、溜まっていた通知が現われる。どれもこれもフーロからだった。その内容を見ると、フーロもリズカードから事実を聞いて、かなり動揺しているようだった。すごく怖いとか、死にたくないとか、剥き出しの感情がメッセージに籠められている。
それでも──逃げたエレカとは違って、彼女は立ち向かおうとしていた。
『最悪、あたしは別に死んでもいいけど、エレカちゃんには元気でいてほしい。あたしの気持ちはそれだけ。だから、エレカちゃんは頑張って生きて』
そんな消え入りそうな最後のメッセージが届いたのは昨日の夜。
そして、その直後にはまた別の淡泊な文章が届いていた。
『明日、一四時十分、下記座標にて──ネナに会いに行き、君を恐ろしい死の孤独から救う』
リズカードからだった。エレカは深い海に潜るような気持ちで文面に目を走らせる。
『君の気持ちがわかると軽率に言ったことは申し訳なかった。あの時、必要だったのは理解を示すことではなかった。ただ言葉でなしに、君の傍らにいさえすれば良かったのだ。ルイモンド島で過ごした夜のように』
「な、何言ってるの、この人は……」
エレカは泣きながら呆れる。まるで私のことが大好きみたいじゃん。不器用な人だ。それでも、長く考えながら文面を打ったのだと伝わってくる。
『君のしてしまったこと、いや、この街で起こっていることの原因は、大元を辿っていけば中世の俺にある。全ての責任は俺にあるんだ。そのせいで君は今、とても困難な状況にあると思う。せめて、どうしようもない怒りや不安から自由に生きて欲しい。きっと、そう願う権利しか俺にはないのだろう』
困難な状況? いや……エレカは、ミクシアンの紐帯とも言うべきものに、救われかけてしまっている。エレカに必要だったささやかな幸福を与えてくれた。
──このままで私はいいの? この幸福が奪われてしまうのを黙って待つなんて……。
そんな自問の浮かぶエレカの目に、リズカードの文面は続いていく。
『それでもやはり、俺は君にいて欲しいと思ってしまう。魔法が使えないこと以上の苦しさが、俺の頭の中、暗雲となって立ちこめている。確かに俺と君の在り方は、何もかもが違っていて、同じところ、共感できるところなど、ひとつもないのかも知れない。しかし、何もかも違った俺たちだからこそ、この街で一緒に在れたことの尊さが身に染みてくるのだ』
心臓が激しく鳴っていた。そうだ。男と女、大人と子供、オルガンとミクシアン、中世人と現代人と……何もかも違ったくせに、私たちは同じだと信じて過ごしてきた。その無邪気さこそ、いつしかエレカが失ってしまった感情だった。
そして──今の幸せに甘えてしまったら、その気持ちを取り戻す機会は二度とない。
『改めて君に伝える。俺は魔法を使いたい。魔法だけがこの時代にあっても、俺が俺であるという安心感を与えてくれる。それだけだ。ではまた、いつか会える日に』
そう告げてリズカードのメッセージは終わった。エレカはまた文の頭に戻り、何度も何度も読み返した。そうしていくうちに、いつかのリズカードの言葉が脳裏に蘇ってくる。
──何があっても決して君をひとりにしないと誓う。
次の瞬間には、飛び出したエレカを追うリズカードの狼狽えた姿が浮かぶ。
エレカ──行くな。君がいないと俺は……魔法を使えないんだ。
その瞬間、ようやくエレカは理解した。リズカードが抱えてきた孤独と葛藤、迷いと不安を。そして、本当にエレカに伝えたかったことを。
『何があっても決して君をひとりにしないと誓う。だから俺を──ひとりにしないでくれ』
ああ、私は馬鹿だ──ずっと一緒にいた人の機微も察せないなんて。
時計を見る。もうすぐ十四時になるところだ。エレカは涙を拭いながら立ち上がった。
必要なものだけ携えて部屋から飛び出すと、居間でくつろいでいるティアに声をかける。
「ティア、ごめん」
「えっ? 何が?」
「なにもかも!」
きょとんとする彼女を置いて、エレカは家の外へと飛び出す。見上げる先にはトロポスの大摩天楼。そこまでの距離はあまりにも、遠い。




