第三章 13 エレカ・ヤヒメ
二度と戻ってきたくなかった場所にエレカは立っていた。故郷とでも言うのであろうエクソスの、ほんの数ヶ月前まで養母と暮らしていた三階建てのアパートメントがあった住所。タクシーに乗った時、とっさに口にしていたらしい。
そこへ、今では知らない風貌の六階建てのマンションが建っていた。いくつかの窓には明かりが灯っていて、既に知らない誰かの生活が営まれているのがわかる。
エレカはじくじく湧いてくる絶望感を抑えつけながら、その場を後にした。
幼い頃によく遊んでいた近くの公園はまだ残っていた。古びた外灯の下、ベンチに腰をかけてぼんやりとする。遺伝子のことや、ヤグのプロジェクトのことを知ってから、頭に靄がかかったかのように、まともに考えることができなくなってしまっている。
──不安な気持ちの中、いてもたってもいられなかったのだろう。
リズカードの言葉が蘇る。思わず拒絶してしまうほどに、正確な指摘だった。
「私……最悪だ」
エレカは頭を抱えた。どうしてリズカードの優しさを受け止めきれなかったんだろう。どうして怒りが湧いてきてしまったんだろう。最低、本当に最低だ。もうあそこには帰れない。
スマートデバイスを見るとフーロからの着信とメッセージがあった。別れ際、フーロにも酷いことを言ってしまった。そのことを思い出すだけでも辛く、ついデバイスの電源を切ってしまう。瞬間、世界がしんと静かになったような気がした。
そうして、もう、後は呼吸をするだけになる。エレカは何も考えたくなかった。
どれだけの間、そうしていたのだろうか。ふと、何か動く気配がした。見ると、犬が散歩をしている。その小型犬はじっとエレカを見つめながら、短い足でててててと歩いていた。
「あれ? もしかして……エレカちゃん?」
「いっ……!」
突然声をかけられて、エレカは声が漏れるほど驚いた。
顔を上げると、リードを握ったボブカットの女の子がエレカの顔をじっと見つめていた。
「あ、やっぱエレカちゃんだ! 覚えてる? ほら、あたし、同じクラスのティア」
「え、えっと……」
正直、ほとんど覚えてなかった。学校に行けなくなって三ヶ月と経っていないのに、クラスメイトの顔はほとんど霧がかかったように思い出せない。
すると、ティアはにへへ、と笑った。
「だよねー、一回も話したことなかったし。あたしが一方的に気になってただけっていうか」
「ど、どうして? 私、勉強してばっかで、ほとんどぼっちだったのに……」
「うん、頑張って大学行くつもりなんだって、心の中で応援してたんだ。でも、突然、学校来なくなっちゃったから、どうしちゃったんだろうって……あっ」
飼い犬が粗相をしたので、ティアがばっと座り込む。そのうなじを呆然と眺めながら、エレカは自分の心が動いていることに気がついた。
「実は二人暮らししてたばあちゃんが亡くなって……家も学校も、いられなくなったんだ」
気がつけば口に出していた。あの時、周りの誰にも言えなかったこと──それでも、誰かに言いたかったことなんだと、今更になってエレカは悟る。
すると、ティアは驚いた様子でエレカを見上げた。
「えっ、そうだったんだ……もう、クラスのみんな心配してたよ」
「みんなって……な、なんで私なんかを……」
「なんでって、クラスメイトが突然いなくなっちゃったら、そりゃ気にするよ」
──大丈夫、大丈夫っ、ミクシアンはソウルで繋がってるんだから。
ティアの言葉にフーロの台詞がフラッシュバックしてくる。これが「ミクシアンの紐帯」。初めての経験に、エレカの目に涙が滲んだ。
「ご、ごめんね……心配させちゃって……」
「んーん、全然。大変だったんでしょ? 今までどこにいたの?」
「えっと……ストラトにいたんだ」
「わ、マジか。なんかあの辺、最近治安ヤバそうだけど平気だった?」
「ううん……平気じゃない。また、居場所がなくなっちゃって……どうしよね、って感じ」
自嘲的に告げる。まさか、自分が加担していたとは口にできない。
すると、ティアは立ち上がりながら、なんでもないように言った。
「そっか。じゃ、うちくる?」
「え?」
呆気にとられるエレカの足下で、ティアの飼い犬が嬉しそうに尻尾を振っていた。




