7話 先輩のことを、まだ何も知らない
次の日、いつもより少し早く教室へ入ると、日和はすでに席についていた。
髪には、今日も黄色い花がついている。
俺に気づいた日和が、手にしていた文庫本を閉じた。
「相沢君、おはよう」
「おはよう」
鞄を机へ置くと、日和が椅子ごとこちらへ向く。
「昨日の図書委員、どうだった?」
「思ってたより仕事が多かった。返ってきた本を棚へ戻すだけでも、場所を覚えるのが大変だな」
「最初から一人でやったの?」
「いや、委員長の先輩が教えてくれた」
「ふうん。どんな人?」
何気なく聞いたように見えて、日和の目はしっかり俺を向いていた。
昨日の図書室を思い出す。
「んー、仕事ができて、周りをよく見てる人かな」
「厳しい?」
「いや。俺が本を落としそうになったら、何も言ってないのに半分持ってくれた」
日和が黄色い花へ触れた。
「昔の私に?」
不意を突かれ、返事が遅れた。
「そこまでは言ってないだろ」
「でも、今ちょっと思い出した顔した」
「どんな顔だよ」
「こういう顔」
日和が眉をわずかに下げ、遠くを見るような顔を作る。
まったく似ていない。
「人の顔で遊ぶな」
「誤魔化した」
「朝から追及が細かいんだよ」
「気になっただけです」
日和は明るく笑うと、椅子を前へ戻した。
それ以上は聞いてこなかったが、黄色い花に触れた指だけは、予鈴が鳴るまで離れなかった。
◇
数日後の放課後、二度目の図書委員の当番が回ってきた。
図書室へ入ると、綾乃先輩は返却台の前で本を分類していた。
「相沢君、お疲れさま」
「お疲れさまです」
「今日は、一人で返却をやってみようか。分からない本だけ残しておいてくれればいいから」
「分かりました」
渡された台車を押し、書架の間へ入る。
前回教わった分類番号を確かめながら、一冊ずつ棚へ戻していく。途中で場所に迷った本が二冊あったが、それ以外は綾乃先輩を呼ばずに済んだ。
最後の一冊を棚へ入れると、後ろから声がした。
「もう終わったの?」
振り返ると、綾乃先輩が台車の取っ手へ手を置いていた。
「分からない本は、台車に残してあります」
「二冊だけ? すごいね。もう私がいなくても大丈夫そう」
「まだ二回目ですよ」
「じゃあ、三回目で委員長を任せようかな」
「それは無理です」
「残念」
綾乃先輩が小さく笑った。
前回まで抱いていた、何でもそつなくこなす人という印象が少しだけ崩れる。
「冗談も言うんですね」
「私、そんなに堅そうに見えた?」
「少しだけ」
「それは困ったな。後輩に怖がられないようにしてたんだけど」
「怖くはないです。落ち着いてるなとは思いましたけど」
「ならよかった」
綾乃先輩は肩の力を抜き、台車に残した二冊を手に取った。
「こっちは分類が少し特殊なの。覚えなくても、分からないときは聞いてね」
書架へ向かう綾乃先輩のあとを追う。
前回は、教え方がうまくて、困る前に手を貸してくれる人だと思った。それは間違っていない。ただ、それだけで綾乃先輩という人を分かった気になっていたのかもしれない。
「相沢君、手が止まってるよ」
「すみません」
「今度は何を考えてたの?」
「今度は?」
「この前も、ときどきぼんやりしてたから」
見られていたらしい。
「白石先輩って、思ってたより話しやすい人なんだなと」
「褒められてる?」
「褒めてます」
「じゃあ、そういうことにしておくね」
綾乃先輩は追及せず、二冊の違いを説明し始めた。
その言葉の選び方も、冗談を言うときの少し得意そうな顔も、前回の俺は知らなかった。
◇
閉館作業を終え、綾乃先輩と昇降口へ向かう。
一階へ下りたところで、綾乃先輩が自動販売機の前に立ち止まった。
「ごめん。飲み物を買ってもいい?」
「もちろんです」
綾乃先輩は財布を出したものの、硬貨を入れずに商品を見上げた。
お茶、炭酸水、果物のジュース。端から端まで見たあと、もう一度最初へ戻る。
「決まらないんですか?」
「決まらないの」
委員たちへ迷わず指示を出していた人と同じには見えなかった。
「いつも何を飲むんですか?」
「それを決めるために迷ってるんだよ」
「じゃあ、桃のジュースとか」
「どうして?」
「白石先輩が一番長く見てたので」
綾乃先輩が桃のジュースへ目を戻す。
「よく見てるね」
硬貨を入れようとしたところで、後ろから声がした。
「綾乃、またそんなことで悩んでいるのか」
振り返ると、見覚えのない三年生らしい男子生徒が階段から下りてきた。
「まだ二分くらいだよ」
「お前の二分は始まったばかりだろ」
「失礼だね」
「去年、五分待たされた」
「あれは新商品が多かったから」
綾乃先輩が俺へ向き直る。
「相沢君、榊原怜司君。同じ三年生で、図書室によく来るの」
「紹介するなら、余計な説明を足すな」
「名前だけより親切でしょ」
「相沢直哉です」
「榊原だ」
榊原先輩は呆れた顔をしたが、先へ行こうとはしなかった。
どうやら、綾乃先輩が決めるまで待つつもりらしい。
「相沢君が桃を選んでくれたから、今日はこれにする」
綾乃先輩がボタンを押す。
「選んだというか、見てたものを言っただけですけど」
「それくらいがちょうどいいの。自分のことまで誰かに決められるのは嫌だから」
落ちてきた缶を拾い、綾乃先輩が俺たちへ見せる。
「お待たせしました」
「本当に待たされたな」
「榊原君は勝手に来たんでしょ」
言い合いながら歩き出す二人の距離には、長い付き合いにしかない気安さがあった。
昇降口へ着く直前、綾乃先輩のスマートフォンが鳴った。
「先生からだ。少し戻ってくるから、二人は先に帰ってて」
綾乃先輩は来た道を引き返していった。
俺も靴箱へ向かおうとすると、榊原先輩が隣に立つ。
「綾乃は、何でも迷わず決められるように見えるだろ」
「図書室では、そう見えました」
「だから、みんなあいつに任せる」
榊原先輩は綾乃先輩が消えた廊下を見る。
「委員長だから大丈夫。白石ならできる。そうやって勝手に決める」
自分にも向けられている言葉だと分かった。
「俺は、まだ二回しか会ってません」
「なら、二回で分かった気になるな」
厳しい口調だったが、言っていることは間違っていない。
「分かりました」
素直に答えると、榊原先輩は少しだけ意外そうな顔をした。
「ならいい」
それだけ言って、綾乃先輩を待つために壁へ背を預ける。
外へ出ると、夕方の風が思ったより冷たかった。
俺が綾乃先輩について知っていたのは、誰かのために動く姿だけだ。本人が何を選び、何に迷い、何を嫌うのかは何も知らない。
それなのに俺は、最初に抱いた安心感へ理由をつけて、先輩のことまで分かった気になりかけていた。




