5話 今の私に似合うもの
教室へ入った瞬間、黒い蝶が視界の端で揺れた。
「相沢君、おはよう!」
美緒が俺の前まで駆けてくる。
黒い蝶の髪飾りは、少し茶色がかった髪の左側についていた。窓から差し込む朝日に照らされ、羽の一部が青く光っている。
「昨日の、つけてきたんだな」
「うん。どう?」
美緒は髪飾りがよく見えるように、顔を斜めに向けた。
「似合ってる」
「本当?」
「高瀬の髪の色に合うと思って選んだからな」
「やった。相沢君に選んでもらって正解だった」
美緒が嬉しそうに笑う。
その向こうで、日和がこちらを見ていた。
俺と目が合うと、すぐに窓の外へ顔を向ける。
髪の横に、小さな黄色い花が咲いていた。
昨日、俺が選んだ髪飾りだ。
「おはよう、篠宮」
席へ向かいながら声をかける。
「おはよう、相沢君」
日和は何事もなかったように答えた。けれど、会話を終わらせようとはせず、どこか落ち着かない様子で俺を見ている。
髪飾りへ触れかけてはやめる動きを、何度も繰り返していた。
「篠宮も、つけてきたんだな」
「買ったんだから、つけるでしょ」
「まあ、そうだな」
それだけ答えて椅子を引くと、日和の口元がわずかに尖った。
「……ほかには?」
「ほか?」
「何でもない」
日和は机から教科書を取り出し、拗ねたように前を向いた。
意味が分からず立っていると、美緒が俺の袖を引いた。
「相沢君、こういうときはちゃんと言わないと駄目だよ」
美緒が俺にだけ聞こえる声で囁く。
「何を?」
「日和、朝から誰かが入ってくるたびに入口を見てたんだから」
「美緒!」
聞こえていたらしい。
日和が顔を赤くして振り返る。
「だって本当でしょ?」
「時計を見てただけ」
「時計、反対側だけど」
美緒が教室の後ろにある時計を指さす。
日和は逃げるように俺から目を逸らした。
俺は改めて、黄色い花を見る。
大きすぎず、制服の色から浮いてもいない。昨日、店で見たときより日和に馴染んでいる気がした。
「似合ってる」
日和が、ゆっくりこちらを見る。
「本当に?」
「昨日も言っただろ。今の篠宮には、明るい色が似合うと思って選んだんだ」
「……そっか」
日和の顔に笑みが広がった。
俺が知っていた頃の控えめなものではなく、嬉しいという気持ちを隠そうともしない笑顔だった。
「ありがとう、相沢君」
「どういたしまして」
日和がようやく前を向く。
その横顔は、まだ笑っていた。
ただ髪飾りを褒めただけなのに、どうしてそこまで喜ぶのだろう。
分からないまま椅子へ座ると、美緒が満足そうにうなずいた。
「相沢君、今のは合格」
「何の判定だよ」
「女の子への接し方」
「高瀬に採点される覚えはない」
「昨日、狼かもしれないって言われてたから」
「まだ引っ張るのか、それ」
美緒が声を上げて笑う。
その声を聞きながら、日和が黄色い花へそっと触れた。
◇
二時間目の現代文では、隣同士でプリントの答えを確認することになった。
日和が、俺のプリントの一か所を指さす。
「相沢君、五問目が違うよ」
「え?」
「二番じゃなくて三番。ここの一文が根拠になるから」
日和が指した本文と、自分の答えを見比べる。
確かに、俺が選んだ答えでは意味が通らなかった。
「本当だ」
答えを書き直そうと筆箱を探ったが、消しゴムが見つからない。どうやら家に置いてきたらしい。
俺はプリントから目を離さないまま、何も考えず日和のほうへ片手を差し出した。
日和も自分のプリントから目を上げないまま、筆箱から消しゴムを取り、その手のひらへ置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そこまで言って、俺と日和は同時に動きを止めた。
昔、一緒に宿題をしていた頃も同じだった。
俺が消しゴムを忘れると、日和は頼まれる前に貸してくれた。俺もいつからか、何も言わず手を出すようになっていた。
「ちょっと待って」
近くの席から、美緒が声をかけてきた。
振り向くと、不思議そうに俺たちを見比べている。
「今、相沢君は何も言わなかったよね?」
「……言ってないな」
「日和も、相沢君の顔を見てなかったよね?」
「筆箱を探してたから、消しゴムかなって。たまたま分かっただけだよ」
日和はすぐに笑顔を作った。
「それだけで、何も聞かずに消しゴムを渡せる?」
「たまたまだろ」
「二人とも、同じこと言うんだ」
美緒はまだ納得していない顔で、俺と日和を交互に見る。
「初対面とは思えないくらい、息が合いすぎじゃない?」
先生が答え合わせを再開するよう促し、美緒は自分のプリントへ戻った。
俺は借りた消しゴムで答えを直し、日和の机へ返す。
日和はそれを受け取りながら、俺と目を合わせた。
初めて会った二人として接していても、長い間に身についたものまで消えるわけではない。
日和は何も言わなかった。
けれど、その表情は嫌そうには見えなかった。
◇
放課後になると、美緒は友人に呼ばれ、先に教室を出ていった。
俺も帰ろうと鞄へ教科書を入れていると、隣から机の中を探る音が聞こえてきた。
日和が教科書やノートを次々に机の上へ出している。
「何してるんだ?」
「ないの」
「何が?」
日和が自分の髪へ触れる。
朝はそこにあった黄色い花が、なくなっていた。
「髪飾り?」
「うん。どこかで落としたみたい」
日和は机の中をもう一度確認し、鞄の小さなポケットまで開いていく。
動きが次第に速くなっていた。
「落ち着けよ。どこかに引っかかってるんじゃないか?」
「でも、なかったら……」
俺の知っていた日和なら、なくし物をしたくらいで、ここまで感情を表へ出さなかった。
俺も鞄を机へ戻し、床へ屈んだ。
二人の机の下にはない。前後の席も調べたが、黄色いものは見つからなかった。
「今日、どこへ行った?」
「教室と、音楽室と、あとは購買くらい」
「結構あるな」
「音楽室、見てくる」
教室を飛び出そうとする日和の腕を、思わずつかんだ。
「待て。終礼の前には、まだついてた」
日和が足を止める。
「どうして分かるの?」
「お前が窓を閉めたとき、黄色いのが見えたから」
「見てたんだ」
「たまたまだ」
日和の口元が少しだけ緩んだ。
けれどすぐに、髪飾りがないことを思い出したように窓際へ向かう。
俺もあとを追った。
日和が閉めた窓の周りを探す。床にも、窓枠の上にも落ちていない。
ふと、カーテンの折り目に小さな黄色が見えた。
白い布を広げると、花の髪飾りが金具を引っかけてぶら下がっていた。
「あった」
「本当?」
日和がすぐ隣まで駆け寄ってくる。
金具を外して渡すと、日和は両手で包み込むように受け取った。
「よかった……」
息と一緒に、力の抜けた声がこぼれる。
「同じものなら、昨日の店で買い直せただろ」
「同じじゃないよ」
日和は強い声で言った。
「これじゃないと、意味がないの」
「そんなに気に入ったのか?」
日和は答えず、手の中の黄色い花を見つめた。
教室には、俺たち以外もう誰もいない。廊下から運動部の掛け声が遠く聞こえてくる。
しばらくして、日和が小さく口を開いた。
「直哉が選んでくれたから」
二人きりになったからか、呼び方が変わっていた。
「でも、買ったのは日和だろ」
「分かってる。そういう意味じゃなくて」
日和は黄色い花を胸元で握り、俺を見る。
「直哉が、今の私に似合うって言って選んでくれたものだから」
「それが、そんなに大事なのか?」
「大事だよ」
日和は迷わず答えた。
「直哉はずっと、昔の私を見てた。穏やかで、落ち着いていて、いつも周りを見て、誰かが困っていれば先に手を貸す私」
責めるような口調ではなかった。
それでも、言葉の一つ一つが胸に刺さった。
炭酸が嫌いだと思っていた。
人前で感情を大きく表へ出さないと思っていた。
何があっても慌てず、周囲を静かに見守る大人びた少女だと思っていた。
日和のことなら何でも知っていると、疑いもしなかった。
「でも、この髪飾りは違う」
日和が手のひらを開く。
「昨日の私を見て、今の私に似合うものを、直哉が選んでくれた。だから、なくしたくなかったの」
ようやく、昨日から分からなかったことがつながった。
日和が欲しかったのは、黄色い花そのものではなかった。
俺が今の日和を見て選んだという、その事実だった。
「日和は、昔のことを全部なくしたいわけじゃないんだな」
「なくしたくないよ」
日和は、少し悲しそうに笑った。
「直哉と一緒にいた時間は、私にとっても大切だから。忘れたふりなんて、本当はできない」
「だったら、どうして初対面なんだ?」
聞かずにはいられなかった。
日和はすぐには答えなかった。
手の中の黄色い花へ視線を落とし、指先で花びらの形をなぞる。
やがて日和は、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「昔の私も、私が生きてきた時間だから。なかったことにはしたくない」
「だから、昔の私だけじゃなくて、今の私のことも、これから知ってほしい」
「それは……分かった」
少なくとも、炭酸飲料の件では反論できない。
「知らないことは、これから知る。でも、知ってることまで嘘にするのは無理だ」
日和は顔を上げた。
「うん」
今度の返事には、迷いがなかった。
「私も、直哉のことを何も知らないふりはできない。雨の日に傘を忘れやすいことも、漫画の発売日を何度も話すことも、全部覚えてる」
「じゃあ、学校ではどうするんだ?」
「もう少しだけ、初対面のままでいさせて」
「理由は?」
「今は、まだ言えない」
また、その答えだった。
けれど、以前とは少し違う。
何も分からなかった頃より、日和が望んでいるものには近づけた気がした。
「分かった。ただし、また俺だけ置いていくなよ」
「努力します」
「そこは約束するところだろ」
日和が小さく笑う。
手の中の髪飾りを自分の髪へつけ直し、位置を確かめるように触れた。
「曲がってない?」
「少し右」
「こっち?」
「行きすぎ」
「見えないんだから、仕方ないでしょ」
何度か動かしたあと、黄色い花が朝と同じ場所に収まった。
日和が俺へ向き直る。
「今の私に、似合ってる?」
朝と同じ質問のはずなのに、胸の奥がわずかに騒いだ。
「似合ってる」
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「だって、大事だから」
日和が笑った。
昔の俺が知らなかった、明るくて、少しいたずらっぽい笑顔だった。
懐かしいとは思わなかった。
それでも、目を逸らせなかった。
俺は初めて、その知らない笑顔を、もっと見ていたいと思った。




