4話 距離が近い
「直哉。今日の帰り、本屋に寄ってもいい?」
学校へ向かう途中、隣を歩いていた日和が言った。
「何か買うのか?」
「私は何も。直哉が読んでる漫画、今日が発売日だよ」
言われて、ようやく思い出した。
「よく覚えてたな」
「直哉、何度も言ってたから」
「そんなに言ったか?」
「三回も」
日和は口元へ手を添え、小さく笑った。
俺が忘れていることまで、日和は覚えていた。
帰りに寄りたい店も、苦手な食べ物も、雨の日に傘を忘れやすいことも。長く一緒にいたから、日和は何でも知っている。
「直哉」
日和が足を止めた。
「どうした?」
「起きなくていいの?」
「え?」
日和の姿が、朝の光の中へ溶けていく。
次の瞬間、耳元で目覚ましが鳴った。
目を開けると、見慣れない天井があった。
引っ越してきたばかりの自分の部屋。
夢の中で隣を歩いていた日和は、もういない。
「……夢か」
以前の日和は、穏やかで、いつも周囲を見ながら俺を気遣っていた。
学校で再会した日和は、よく笑い、自分から人の輪へ入っていく。俺が知らなかったものを、当たり前のように好きだと言う。
昨日見た日和と、夢の中の日和。
同じ顔なのに、どうしても同じ少女には思えなかった。
◇
昼休み。
弁当を机へ出したところで、女子生徒が椅子を持ってやってきた。
「相沢君、ここいい?」
肩に触れるくらいの髪が、毛先だけ外側へ跳ねている。少し茶色がかった髪に、大きく表情の動く目。小柄だが、制服の胸元は窮屈そうに見えるほど膨らんでいた。
「篠宮の席だけど」
「大丈夫。自分の椅子持ってきたから」
女子は俺の机の横へ椅子を置いた。
「昨日、ちゃんと話せなかったよね。私、高瀬美緒」
「よろしく、高瀬」
「うん。よろしく」
美緒は手にしていたパンを机へ置く。
「相沢君、お弁当なんだ。いいなあ」
「高瀬は購買か」
「出遅れたー。残ってたの、焼きそばパンとジャムパンだけ」
「組み合わせがすごいな」
「でしょ? どっちから食べれば正解だと思う?」
「どっちから食べても同じだろ」
「じゃあ焼きそばからにしよ」
俺に聞いた意味はなかったらしい。
美緒は焼きそばパンの袋を開けながら、俺の弁当をのぞき込んだ。
「卵焼き、甘いやつ?」
「たぶん」
「一個ちょうだい!」
「初対面の相手に言うか?」
「じゃあ私のジャムパンと交換」
「いらない」
「おいしいのに」
美緒が不満そうに頬を膨らませる。
表情がころころと変わるので、見ていて飽きない。
「ほかには何が入ってるの?」
美緒が身を乗り出した。
肩が触れそうなほど近い。
思わず体を引くと、美緒が俺の顔を見た。
「どうしたの?」
「いや……その、近いなと思って」
「あ、ごめん。またやっちゃった」
美緒は少しだけ離れた。
「話してると、つい寄っちゃうんだよね」
そう言って笑う。
悪気がないことは、その顔を見れば分かった。
教室の入口に、購買の袋を持った日和が立っていた。
俺たちを見ている。
日和はすぐに笑顔を作り、こちらへ歩いてきた。
「相沢くんと高瀬さんもう仲良くなったんだね」
「高瀬が話しかけてくれたんだ」
「ふうん」
日和は購買の袋を机へ置くと、俺の耳元へ顔を寄せた。
「可愛い女の子なら、誰でもいいんだ」
「何の話だよ」
「顔、赤かったけど」
「……近かっただけだ」
「ふぅん、そうなんだ」
日和はにこやかな顔のまま離れた。
美緒が焼きそばパンを持ったまま、俺たちを見比べる。
「二人も、昨日だけでずいぶん仲良くなったんだね!」
日和の動きが一瞬止まった。
「昨日、学校を案内したから。そのときに少し話したの」
「そうなんだ」
美緒はあっさり納得し、日和へジャムパンを差し出した。
「そうだ。相沢君、放課後って予定ある?」
美緒が尋ねる。
「特にないな」
「じゃあ、駅前の買い物に付き合ってくれない?」
「え、俺が?」
「ちょうど髪飾りを買おうと思ってたんだ。ついでに、この辺も案内するよ」
「いいのか?正直助かる」
「もちろん。こっちに来たばかりなんでしょ?」
「そういえば、駅前にいろいろ店があったな」
「この辺は駅前くらいだよ。少し離れたら、ほとんど住宅街だし」
美緒がスマートフォンを取り出し、地図を開いた。
「行きたいのはここ」
画面を見せるため、また俺のほうへ体を寄せる。
柔らかなものが腕へ触れた。
「――っ」
体が固まる。
「美緒」
日和が咳払いをした。
美緒は慌てて体を離した。
「美緒は可愛いんだから、もう少し気をつけたほうがいいよ」
「何に?」
日和は俺を見た。
「相沢君、狼かもしれないし」
「本人の前で言うなよ」
美緒が大きな目で俺を見る。
「相沢君、狼なの?」
「違う」
「違うって」
美緒が日和へ報告する。
「狼はそう言うよね」
日和は俺を疑うように目を細めた。
「やっぱり、私も行ったほうがよさそう」
「日和も来る?」
「うん。美緒一人だと心配だから」
そう言いながら、日和が睨んでいるのは俺だった。
思わず背筋が伸びる。
◇
放課後、三人で駅前へ向かった。
美緒は道を案内しながら、目についた店を次々に教えてくれた。
日和も美緒の隣でよく笑い、気になった店があれば自分から足を止める。
夢の中の日和なら、俺が立ち止まるまで黙ってついてきただろう。
今の日和は違う。
「相沢君、遅いよー!」
振り返り、俺を急かす。
誰かの後ろではなく、自分から先へ進んでいく。
最後に入った雑貨店で、美緒が髪飾りの並んだ棚の前に立ち止まった。
「これ見たかったんだ」
色も形も違う髪飾りを、一つずつ鏡へ合わせていく。
「日和、どれがいいと思う?」
「こっちの青いのは?」
「少し大人しすぎるかも」
「じゃあ、この花」
「制服に合うかな?」
「美緒なら大丈夫じゃない?」
二人のやり取りを横で眺めていると、美緒が振り返った。
「相沢君は、どれがいいと思う?」
「俺に聞かれても、よく分からないぞ。それに高瀬なら何でも似合いそうだけど」
「そういうことじゃないよー、もう!」
美緒は困ったように笑った。
「一つ選んでみてよ!」
仕方なく、棚へ並んだ髪飾りを見ていく。
その中に、小さな黒い蝶をかたどったものがあった。光の当たり方で、羽の部分が青く見える。
「これとか」
「黒い蝶?」
美緒は受け取ると、髪へ合わせて鏡を見る。
「どう?」
「髪の色に合ってると思う」
「ホント?じゃあ、これしようかな」
美緒は嬉しそうに黒い蝶を手に取り、レジへ向かった。
その背中を見送っていると、日和に袖を引かれた。
「相沢君」
「何?」
「私にも選んでくれる?」
日和は髪飾りの棚を指した。
「篠宮も買うのか?」
「美緒のを見てたら、欲しくなったの」
明るく笑っているが、俺の袖をつかんだまま離さない。
「どんなのがいい?」
「それを相沢君に選んでほしいんだけど」
もう一度、棚へ目を向ける。
小さな黄色い花の髪飾りが目に入った。
「これかな」
「黄色?」
「今の篠宮はさ、よく笑うから。こういう明るい色が似合うと思う」
日和は驚いたように瞬きをした。
それから黄色い花を髪へ当て、俺へ顔を向ける。
「どう?」
「似合ってる」
「じゃあ、これにする」
「もう決めたの?」
会計を終えた美緒が戻ってきた。
「うん」
日和は黄色い花を大切そうに手のひらへ載せる。
「相沢君が選んでくれたから」
先ほどまで俺を睨んでいたことなど忘れたように、日和は上機嫌でレジへ向かった。
「日和、嬉しそうだね」
美緒がその背中を見ながら言った。
「そうか?」
「うん。すごく」
俺には、その理由が分からなかった。
ただ、黄色い花を手に笑う日和を見て、あの色を選んでよかったと思った。




