3話 俺の知らない日和
「もう一度、初めましてから始めよう。相沢君」
日和の言葉を、すぐには受け入れられなかった。
十年近く一緒にいた幼馴染と、今日初めて会ったことにする。そんな話に、分かったとうなずけるはずがない。
けれど、断れば日和はまた何も話さなくなる。告白を断った理由を知るためにも、今は日和の望みに付き合うしかなかった。
「学校では、初対面ってことにする。それでいいんだな?」
「うん」
「でも、納得したわけじゃないからな」
「分かってる」
日和は素直にうなずいた。
「それと、二人きりのときまで相沢君って呼ぶのはやめてくれ。気持ち悪い」
「ひどくない?」
日和が目を丸くした。直後、声を上げて笑う。
昔の日和なら、口元へ手を添えて小さく笑っていた。目の前の日和は、面白ければ遠慮なく笑い、不満があればすぐ顔に出す。
「分かった。二人のときは直哉って呼ぶ」
笑いを残したまま、日和は階段を下り始めた。
「ほら、早く戻ろう。お昼休み終わっちゃうよ」
「誰のせいでここまで来たと思ってるんだ」
「相沢君が話したいって言ったからでしょ?」
「もう学校の設定に戻ってるし……」
日和は振り返り、いたずらが成功した子供のように笑った。
その表情を、俺は知らなかった。
教室へ戻ると、日和の机には弁当を広げた女子たちが集まっていた。
「日和、どこ行ってたの?」
「相沢君に校舎を少し案内してた。今日が初日だから」
日和は迷うことなく答え、自分の弁当を持つ。
「相沢君も一緒に食べる?」
突然誘われ、女子たちの視線が俺へ集まった。断ろうとしたが、日和はすでに隣の机を動かし、俺が座る場所を作っている。
「嫌ならいいけど?」
挑発するような顔を向けられた。
「……食べるよ」
席へ着くと、日和は満足そうに笑った。
そのあとの会話でも、日和はよく喋った。俺が質問に困ればさりげなく話題を変え、輪の外にいる生徒がいれば自然に声をかける。
昔の日和も優しかった。けれど、その優しさは黙って寄り添うものだった。
今の日和は、自分から手を伸ばして相手を引っ張る。
同じ優しさでも、俺が知っているものとは形が違っていた。
◇
午後の授業が終わると、日和が俺の机へやってきた。
「相沢君、まだ校内をよく知らないよね。案内しようか?」
周囲に聞こえる、明るい声だった。
近くにいたクラスメイトが、「篠宮、面倒見いいな」と笑う。日和は「隣の席だからね」と軽く返した。
一か月遅れで登校した俺が校内を案内してもらうのは、不自然ではない。日和は最初から、こうやって俺と接するつもりだったのだろう。
「じゃあ、頼む」
鞄を持って立ち上がると、日和は「任せて」と胸を張った。
日和の案内は、必要以上に細かかった。
職員室や保健室だけでなく、昼休みにパンが売られる場所、空いていることの多い階段、図書室で一番日当たりのいい席まで教えてくる。
廊下ですれ違う生徒の何人かが日和へ声をかけた。日和は相手によって話題を変え、冗談まで交えながら足を止めずに返していく。
「お前、本当に一か月前に来たばかりなのか?」
人がいなくなったところで尋ねる。
「そうだよ」
「知り合い、多すぎないか」
「話したら知り合いになるでしょ」
簡単なことのように言う。
俺の知っている日和は、自分が会話の中心になるより、一歩引いて全体を見ていることが多かった。話に入れていない人がいれば、目立たないようにそっと声をかける。静かではあっても、人付き合いが苦手なわけではなかった。
今の日和は違う。
自分から笑い、自分から話しかけ、自分から人との距離を縮めていく。
「何?」
見つめていたことに気づかれた。
「いや、別に」
「私を見てほしいって言ったけど、じろじろ見ていいとは言ってないよ」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
日和が楽しそうに笑う。
からかわれているのに、不思議と嫌ではなかった。告白を断られてから初めて、日和と普通に話せた気がした。
案内の最後に、一階の自動販売機へ着いた。
「喉渇いた」
日和は迷わず硬貨を入れ、レモン味の炭酸飲料のボタンを押した。
落ちてきたペットボトルを見て、思わず声が出る。
「お前、炭酸嫌いだっただろ」
「好きだよ」
日和は蓋を開け、一口飲んだ。
「昔から」
「嘘だ。いつもお茶を飲んでたじゃないか」
「私、炭酸が嫌いって言ったことあった?」
言われて、記憶を探る。
日和が炭酸を嫌いだとはっきり口にした場面は、一つも思い出せなかった。ただ、日和がいつもお茶を選ぶから、そうなのだと思い込んでいただけだ。
「ない、かもしれない」
「じゃあ、直哉が勝手に決めてただけだね」
日和は得意そうに笑い、もう一度ペットボトルへ口をつけた。炭酸が弾けたのか、少しだけ目を細める。
十年近く一緒にいた。日和のことなら、何でも知っているつもりだった。
それなのに俺は、日和の好きな飲み物さえ知らなかった。
「ほら」
日和が自動販売機を指さす。
「次は相沢君の番。好きなもの、教えてよ」
初対面の相手に尋ねるような口調だった。
けれど、その笑顔を見ていると、少しだけ分かった気がする。
日和が言った「私を見てほしい」という言葉の意味を。
炭酸を飲んで楽しそうに笑う日和を、俺は今日、初めて知った。




