2話 私を見てほしい
「初めまして、相沢君」
聞き慣れた声が、聞いたことのない言葉を口にした。
何かの冗談だと思った。けれど、日和は笑ったまま俺を見ている。その顔には、言い間違いを訂正する気配もなかった。
「……何言ってるんだ?」
「相沢、どうした。早く座れ」
担任に促され、俺は何も聞けないまま席に着いた。
日和の隣。机と机の間は、手を伸ばせば届くほどしか離れていない。なのに、近所に住んでいた頃よりも、ずっと遠く感じた。
「教科書、今日は私のを見て」
日和が机の中央へ教科書を置く。
「時間割はあとで送るね。学校の決まりで分からないことがあったら、何でも聞いて」
聞き慣れない明るい声だった。俺の知っている日和は、こんな話し方をしない。
『教科書、忘れたの? 仕方ないなあ』
昔なら、少し呆れた顔でそう言ったはずだ。
「日和、お前――」
「篠宮」
小さな声で遮られた。
日和は前を向いたまま、笑顔を崩さない。
「学校では、篠宮って呼んで」
その言葉だけは、俺にしか聞こえない声だった。
担任が連絡事項を話し始める。俺はその内容をほとんど聞けなかった。
黒板を見るふりをしながら、隣の日和を何度も盗み見る。髪の長さも、横顔も、俺の知っている日和と同じだ。記憶を失ったわけでも、他人の空似でもない。
それなのに、日和は一度もこちらを見なかった。
ホームルームが終わると、近くの席の男子が俺の机へ寄ってきた。
「相沢だっけ。篠宮と知り合いなの?」
やはり、さっきのやり取りを聞かれていたらしい。
「いや、その……」
嘘をつけばいいのか。それとも、日和とは幼馴染だと言ってしまえばいいのか。
迷っていると、日和が振り返った。
「家が近かったから、お互い名前だけは知ってたの。でも、話すのは今日が初めてだよ」
日和は平然と、二人の十年を切り捨てた。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
十年近く一緒にいた。毎朝同じ道を歩いて、くだらないことで喧嘩をして、次の日には何事もなかったように話した。その時間を、日和はたった一言でなかったことにした。
「……俺も、初対面だ」
何を考えているのかは分からない。それでも、クラスメイトの前で問い詰めることだけはしたくなかった。
「だよな。びっくりした」
男子はすぐに興味を失い、別の話を始めた。
どこから引っ越してきたのか。部活は決めているのか。一か月も遅れたのはどうしてか。
無難に答えながら、俺は日和の様子をうかがった。日和は女子数人に呼ばれ、昨日見た動画の話で笑っている。俺といるときよりよく喋り、よく笑う。
最初は、転校先で無理に明るく振る舞っているのだと思った。だが、そうは見えなかった。
誰かに話を振られればすぐに返し、別の誰かが会話に入れずにいれば、自然にその子へ話題を向ける。日和を中心に人が集まっていた理由が、少しだけ分かった。
あれが演技でないのなら、俺は十年もそばにいながら、日和の何を見ていたのだろう。
やがて予鈴が鳴り、生徒たちが席へ戻っていく。日和も前を向いた。
俺は机の下でスマートフォンを開き、日和とのメッセージ画面を表示した。
『昼休み、話がしたい』
送信すると、隣で日和のスカートのポケットが小さく震えた。
日和は机の陰でスマートフォンを確認すると、素早く指を動かした。
数秒後、俺の画面に返信が届く。
『分かった。昼休みになったら、ついてきて』
◇
昼休みになると、日和は弁当を持たずに教室を出た。
少し間を空けて、その背中を追う。
日和は人の多い廊下を抜け、校舎の端にある階段を上った。最上階まで来ると、屋上へ続く扉の前で足を止める。扉には鍵がかかっていた。昼休みにここまで来る生徒はいないらしく、下の階から聞こえる話し声も遠い。
日和は振り返ると、教室にいたときと同じ明るい表情で俺を見た。
「驚かせて、ごめん」
「どうしてここにいる。いつ転校してきた。なんで俺に何も言わなかった。それに、初めましてって何だよ」
抑えていた言葉が一気にこぼれた。日和は黙って聞き、俺が言い終えるのを待ってから口を開いた。
「私も四月に引っ越して、この学校に転校したの。直哉がここへ来ることは、お母さんから聞いてた」
「知ってて、黙ってたのか?」
「うん」
日和は言い訳をしなかった。
「俺のことを忘れたわけじゃないんだな?」
「忘れてないよ」
答えは、あっさり返ってきた。安心するより先に、腹が立った。
「だったら、なんで初対面のふりなんかするんだ。俺たちが一緒にいた十年まで、なかったことにするつもりか?」
「なかったことにはしない」
日和はまっすぐ俺を見た。
「私を見てほしい」
告白を断ったときと同じ、何かを堪えるような目だった。
「見てるだろ。ずっと一緒にいたんだから」
日和は小さく首を横に振った。
「それが、告白を断った理由なのか?」
日和は答えず、目を伏せた。
俺は、日和が何を考えているのか知りたかった。
「一つだけ教えてくれ。俺にどうしてほしいんだ?」
日和はすぐには答えなかった。
階下から、誰かの笑い声が響く。それが消えたあと、日和はゆっくり口を開いた。
「この学校では、昔の私たちを知らない人しかいない」
「そうだな」
「だから、ここでは初めて会った二人として接してほしい」
胸を突かれたような気がした。
「本気で言ってるのか?」
「うん」
日和は、泣きそうにも見える顔で笑った。
「もう一度、初めましてから始めよう。相沢君」




