1話 初めまして
「ずっと前から、日和のことが好きだった」
言葉にした途端、胸の奥が妙に静かになった。
高校一年の修了式を終えた、三月下旬の夕方。俺――相沢直哉は、幼馴染の篠宮日和と二人で、近所の公園にいた。子供の頃から何度も遊んだ場所だ。
色の剥げた二人掛けのベンチも、俺たちが競争して登った滑り台も、昔から変わっていない。
変わるのは、俺たちのほうだった。
来週、俺は父親の転勤でこの町を離れる。だから、その前に伝えておきたかった。
たとえ断られても、言わずに離れるよりはいい。そう覚悟していたはずなのに、日和が黙り込むと、急に逃げ出したくなった。
日和は膝の上で両手を重ね、その指先を強く握っていた。少なくとも、迷惑だからすぐ断りたいという顔ではない。そんな都合のいい期待が、胸の中で膨らんでいく。
「……いつから?」
俯いた日和が尋ねた。
「え?」
「直哉は、いつから私のことが好きだったの?」
すぐに答えられると思っていた。
けれど、十年近く一緒にいる。どこからが幼馴染としての好意で、どこからが恋だったのかと聞かれると、はっきりしない。
それでも、始まりと呼べる記憶はあった。
「六歳のときかな」
日和の肩が、わずかに揺れた。
「俺が目の手術をしたとき。覚えてるだろ?」
手術前の一週間、俺は両目を包帯で覆われていた。
何も見えない暗闇の中で、手術が失敗すれば、このまま二度と見えなくなるかもしれない。幼かった俺は、本気でそう思って怯えていた。
そんな俺のところへ、日和は何日も来てくれた。
「不安で仕方なかった俺を、ずっと勇気づけてくれたよな」
見えなくても歩けるように、手を引いてくれた。
折り紙を俺の手に重ね、指先の感触だけで折り方を教えてくれた。うまく折れずに俺が投げ出しそうになると、何度でも最初から付き合ってくれた。
『見えなくても、一緒ならできることはあるよ』
あの言葉を、今でも覚えている。
「たぶん、あのときから好きだった」
日和が顔を上げた。
受け入れてくれるとは限らないと思っていた。それでも、照れたり、困ったり、何かしらの反応を返してくれると思っていた。
けれど、その顔に浮かんでいたのは、俺の想像していたどの感情とも違った。
日和は何かに傷ついたように唇を引き結び、やがて、諦めたように力を抜いた。
「……そっか」
日和は、かすかに笑った。泣きそうな笑顔だった。
「そこからだったんだ」
「日和?」
「……ごめん」
返事を聞く前に分かった。
「直哉とは、付き合えない」
「どうして?」
聞かずにはいられなかった。
日和は膝の上で握っていた手をほどき、立ち上がった。
「……今は、言えない」
日和は俺を嫌っているわけではない。それくらいは、十年近く一緒にいたから分かる。
だからこそ、分からなかった。
なぜ、俺があの思い出を話した瞬間、日和は泣きそうな顔をしたのか。
結局、日和はそれ以上何も言わず、一人で公園を出ていった。俺は追いかけることができず、誰もいなくなったベンチに残った。
その一週間後、俺は生まれ育った町を離れた。
◇
四月。高校二年の新学期が始まっても、俺は学校へ行かなかった。
失恋して、何もできなくなったわけではない。
新しい町で、新しい学校へ通えば、日和のいない生活が始まる。その前に、自分の中にある気持ちへ、きちんと区切りをつけたかった。
父さんも母さんも、事情を知っていた。無理に忘れろとも、すぐに学校へ行けとも言わず、俺が前を向けるまで待ってくれた。
もちろん、何もせずに休んでいたわけではない。両親は転校先の学校と何度も相談し、俺も自宅で課題を進め、週に一度は担任と電話で話した。一か月を区切りに登校することも、最初から決めていた。
最初の一週間は、引っ越しの段ボールを開けて過ごした。本棚に教科書を並べ、机の位置を何度も変えた。作業をしている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
二週間目からは、朝になると家を出た。
通学路を歩き、新しい駅や商店街を見て回る。制服姿の生徒とすれ違うたび、まだ何者でもない自分だけが町から取り残されているように感じた。
スマートフォンを開けば、日和とのやり取りが残っている。最後のメッセージは、告白をする前の日に送られてきたものだった。
『明日、いつもの公園でいい?』
何度も消そうとした。それでも、消せなかった。
忘れることと、前を向くことは違う。三週間目に、ようやくそう思えた。
日和を好きだった自分まで否定する必要はない。振られた事実を抱えたままでも、新しい生活は始められる。
四週間目の夜、俺は両親に「明日から学校へ行く」と伝えた。
母さんは理由を聞かず、「分かった」とだけ答えた。父さんも一度うなずき、朝は車で送ろうかと尋ねてきた。
俺は断った。最初の一歩くらいは、自分で歩きたかった。
一か月かけて、ようやく決めた。
告白は失敗した。日和が俺を選ばなかった。それだけだ。
幼馴染として過ごした時間まで、なくなるわけじゃない。俺は日和のいない場所で、新しい生活を始める。
五月になり、そう決めて、今日ここへ来た。
校門をくぐるだけで、思っていたより勇気が要った。
一か月も遅れて現れた転校生を、クラスの連中はどう見るのだろう。妙な奴だと思われるかもしれない。それでも、地元を離れる前の俺とは違う。
もう、過去ばかり見て立ち止まるつもりはなかった。
「相沢、準備はいいか?」
教室の前で、担任が俺を見る。
「はい」
短く答えると、教師が扉を開けた。
話し声で満ちていた教室が、一瞬で静かになる。窓際では、数人の生徒が一つの机を囲んでいた。けれど、その中心に誰がいるのかは、重なった背中に隠れて見えない。
担任に気づいた生徒たちがそれぞれの席へ戻り、何十人もの視線が一斉に俺へ向けられた。
好奇心を隠さずこちらを見る者もいれば、興味なさそうに頬杖をつく者もいる。すでに出来上がった人間関係の中へ、一人だけ遅れて放り込まれたのだと実感した。
だが、不思議と足はすくまなかった。
この教室には、俺の過去を知る人間はいない。告白に失敗したことも、一か月立ち止まっていたことも知らない。ここなら、本当に最初からやり直せる。
「以前伝えていた転校生だ。家庭の事情で登校が遅れたが、今日からこのクラスに加わる」
黒板に名前を書き、振り返る。
「相沢直哉です。よろしくお願いします」
無難に頭を下げると、ぱらぱらと拍手が起こる。
顔を上げた俺は、窓際の席を何気なく見た。
そして、息が止まった。
そこに、日和がいた。
見間違えるはずがない。十年近く、誰より近くで見てきた幼馴染だ。
けれど、俺の知っている日和とは、何かが違った。
日和は穏やかに微笑み、周囲を見守るような女の子だった。
だが、さっきまで数人のクラスメイトに囲まれていたのは日和だった。転校してまだ一か月のはずなのに、すでにこの教室へ馴染んでいる。
どうして、ここにいる。
転校するなんて、一言も聞いていない。
日和も俺に気づいた。一瞬だけ、その表情から笑顔が消える。
「相沢の席は、篠宮の隣だ。篠宮、教科書や時間割のことを教えてやってくれ」
担任に名前を呼ばれた日和は、すぐに先ほどまでの明るい笑顔へ戻った。
俺は指定された席へ向かい、日和の机の横で足を止めた。
「日和……?」
俺が名前を呼んでも、彼女は答えなかった。
まるで本当に知らない相手を見るように、俺の顔をじっと見つめる。
やがて日和は、俺の知らない明るい笑顔を浮かべた。
「初めまして、相沢君」
幼馴染は、そう言って笑った。




