39話 初恋の名前
母さんが見つけたノートは、俺が入院した一週間を日付順に記したものだった。
最初の数ページには、医師から受けた説明や、薬を飲んだ時間が細かく書かれている。
ページを進めると、俺が何を食べたか、夜に何度起きたか、誰が見舞いへ来たかという記録へ変わっていった。
「こんなに書いてたんだ」
「手術が終わるまでは、私も落ち着かなかったから。書いているほうが楽だったの」
母さんが向かいの椅子へ座る。
ある日付に、篠宮姉妹の名前が並んでいた。
『琴葉ちゃんと日和ちゃんがお見舞い。色紙をたくさん持ってきてくれた。日和ちゃんが色を選び、琴葉ちゃんが折り方を教える。直哉は見えないから嫌だと怒ったけれど、最後には三人で鳥を作った』
夢で聞いた会話と重なる。
赤が一番強いと決めたのは日和。
俺の手へ指を重ね、折り方を教えたのは琴葉。
「母さん。この日は、二人ともいたんだよな?」
「ええ。写真を撮った日よ」
ページの端には、赤、青、黄色と、三羽の鳥の色まで書かれていた。
さらに読み進める。
手術の前日の日付で、母さんの字が急に乱れていた。
『明日が怖いと直哉が泣き出した。日和ちゃんは一生懸命、手術が終わったら何をして遊ぶか話してくれた。琴葉ちゃんは直哉の隣に座り、折り紙の続きを始めた』
その下の一文を見た瞬間、指が止まった。
『琴葉ちゃんが「見えなくても、一緒ならできることはあるよ」と言って、直哉の手を自分の手で包んだ』
何度読んでも、名前は変わらなかった。
「これ、母さんが聞いたの?」
「聞いたよ。私もすぐそばにいたから」
「間違いじゃない?」
自分でも、何を期待しているのか分からなかった。
母さんは否定せず、ゆっくり答える。
「琴葉ちゃんだった」
喉の奥が詰まった。
「日和ちゃんも毎日のように来て、あなたを笑わせようとしてくれた。どちらか一人しかいなかったわけじゃない」
「分かってる」
「覚えていることまで嘘になったわけでもないよ」
「でも、俺は間違えた」
告白の日、日和へ言った。
あの言葉で救われた。
あのときから好きだった。
その言葉をくれた少女の名前を、俺は取り違えていた。
母さんは何も言わず、俺がノートを閉じるまで待った。
◇
ノートの該当するページを撮り、日和へ連絡した。
『今から会えるか』
返事はすぐに来た。
『家の近くの公園にいる』
外へ出ると、日はすでに傾いていた。
公園のベンチに日和が一人で座っている。
俺を見ると立ち上がり、いつものように笑おうとして、やめた。
「見つかったんだね」
「知ってたのか?」
「直哉のお母さんが、昔の記録を探してることは聞いてた」
スマートフォンの写真を見せる。
日和は一度だけ目を閉じた。
「折り紙を教えてくれたのは、琴葉だったんだな」
「うん」
否定はなかった。
「あの言葉も」
「お姉ちゃんが言った」
日和はベンチへ座り直す。
俺も一人分空けて隣へ座った。
「私は、色を選んだ。直哉が怖がってたから、手術が終わったら公園で遊ぼうって、ずっと喋ってた」
「赤い鳥が一番強いって言った」
日和が驚いて俺を見る。
「思い出したの?」
「夢で。今なら、あれがお前の声だって分かる」
「そっか」
日和が膝の上で両手を握る。
「お姉ちゃんは、私より直哉を落ち着かせるのが上手だった。私は元気にすれば怖くなくなると思ってたけど、あの日の直哉にはうるさかったかもね」
「そんなことない」
「でも、一番怖かったときにそばへ座ったのは、お姉ちゃんだった」
日和は事実だけを言った。
俺を責める言葉は一つもない。
それが余計に苦しかった。
「告白したとき、すぐに分かったんだな」
「あの言葉を覚えてたから」
「どうして、その場で教えなかった?」
日和は膝の上へ視線を落とした。
「あのときは、直哉の恋の始まりが私じゃなかったって知っただけで苦しかった。直哉が今も私を好きなのか、確かめる勇気もなかった」
「日和」
「今ここで理由を全部話したら、直哉は私を安心させる答えを急いで出すでしょ。だから先に、自分で考えてほしい」
強い声だった。
目には涙が溜まっていたが、日和は自分から俺を見た。
「だから直哉も、逃げないで考えて」
「何を?」
「真相を知っても、私を好きなのか」
答えようとして、言葉が出なかった。
初恋の始まりだと思っていた記憶は、琴葉のものだった。
長いあいだ好きだった日和の振る舞いには、琴葉の影響があった。
それでも日和を好きだと、今すぐ言うのは簡単だった。
簡単に言ってはいけない気がした。
「考える」
「うん」
日和は立ち上がった。
「答えが出たら、今度は直哉から来て」
一人で公園を出ていく背中を、今度は目を逸らさず見送った。
俺が最初に好きになった少女の名前は、篠宮琴葉だった。




