38話 白石先輩
翌日の放課後、自動販売機の前には綾乃先輩が先に立っていた。
「今日は待たせましたか」
「二分くらい」
「細かいですね」
「相沢君が前に言ってたから、使ってみた」
綾乃先輩は笑ったが、両手を背中へ回していた。
緊張すると、指を握る癖がある。体育祭の会議で、自分は走りたいと申し出る前にも同じことをしていた。
俺が気づいたことに気づき、先輩が手を前へ出す。
「今、何を見てた?」
「先輩が緊張してるときの癖です」
「誰かに似てた?」
尋ねる声は穏やかだった。
それでも、ここまで何度も考えてきた問いだと分かる。
「いいえ。俺が会ってから知った、白石先輩の癖です」
綾乃先輩は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「ちゃんと、私なんだね」
自動販売機へ硬貨を入れる。
今日は桃を一度見たあと、ミルクティーを押した。
「桃じゃないんですね」
「今日は甘いものが飲みたいから」
「桃も甘いでしょう」
「ミルクティーの気分なの」
缶を取り出し、自分の両手で包む。
「こういう小さいことまで理由を聞くの、相沢君の悪い癖だよ」
「先輩が決められないから、気になっただけです」
「今日は決めたでしょ」
「そうでした」
綾乃先輩が笑う。
すぐに、その笑顔が弱くなった。
「昨日、答えを聞いてほしいって言ったよね」
「はい」
「その前に、一つ確認させて」
ミルクティーの缶を見つめたまま、言葉を選ぶ。
「相沢君が最初に私を見た理由には、昔の篠宮さんと、琴葉さんがいた。それは変わらない?」
「変わりません」
「今は?」
「今、先輩と話すときに見てるのは白石綾乃です」
名字と名前を続けて呼ぶと、先輩が顔を上げた。
「飲み物を決められなくて、でも人の仕事はすぐ決める。走るときは思ったより負けず嫌いで、怒ると意地悪になる」
「最後のは言わなくてよくない?」
「全部、先輩です」
綾乃先輩は笑おうとして、失敗した。
目の縁に涙が溜まる。
「その答えを聞いたら、言わないで帰れなくなるね」
「最後まで聞きます」
「うん」
先輩は缶を胸元へ持ち、俺をまっすぐ見た。
「私、相沢君が好き」
穏やかな声だった。
それでも、言い終えた瞬間には息が震えた。
「体育祭で走らせてもらったから、だけじゃない。私の答えを待ってくれたことも、間違えたあとに戻ってきたことも、私が嫌なことを言っても逃げずに聞いたことも好き」
一度、息を吸う。
「篠宮さんがいるから言わないほうがいい。来年には卒業するから、今のままのほうがいい。そう思うたびに、また自分の気持ちを後回しにしてるって気づいた」
「先輩」
「最後まで言わせて」
前と同じ言葉でも、今はそこへ至る時間を知っている。
「私が誰かの影に見えたことは嫌だった。でも、そのあと相沢君が知った私まで影にはしたくない。私が相沢君を好きになったことも、誰かの代わりにはしない」
涙が一つ、頬を伝う。
「だから、白石綾乃として相沢君を選ぶ。相沢君は、誰を選ぶ?」
答えは決まっていた。
「俺は、日和が好きです」
綾乃先輩の指が、缶を強く握る。
「先輩と話す時間は好きです。先輩が俺を待ってくれたことも、今まで見せてくれた顔も忘れません」
「うん」
「でも、恋人になりたいのは日和です。先輩の気持ちには応えられません」
綾乃先輩は俯いた。
長い沈黙のあと、缶の蓋を開ける音が響く。
一口飲もうとして、手が震えた。先輩は諦めて缶を下ろす。
「甘いのにしたの、正解だったかな」
「先輩」
「今、優しくしないで。たぶん余計に泣いてしまうから」
「分かりました」
「本当に何も言わないんだ」
「どうすればいいんですか」
「ごめん。私も分からない」
綾乃先輩は涙を拭い、少しだけ笑った。
「こういうときくらい、分からないままでいいよね」
「はい」
「相沢君の答え、ちゃんと選んだもの?」
「はい」
「昔の篠宮さんでも、琴葉さんでもなく、今の篠宮さん?」
胸の奥に、まだ確かめきれていない記憶が残る。
それでも、今分かる範囲で答えた。
「今の日和を、もっと知りたいと思ってます」
「分かった」
綾乃先輩は一度、大きく息を吐いた。
「選ぶことと、選ばれることは別なんだね」
「すみません」
「謝らないで。選ばれなかったのはつらいけど、言ったことは後悔してない」
ミルクティーをもう一口飲む。
今度は手が震えなかった。
「今日は一人で帰る。明日の委員会では、仕事の話だけなら普通にできます」
「無理をしなくても」
「無理をするかどうかも、私が決める」
「そうでした」
綾乃先輩が背を向ける。
数歩先で、榊原先輩が待っていた。
俺と目が合うと、短く尋ねる。
「曖昧にしたか?」
「してません」
「ならいい」
「榊原君」
綾乃先輩が振り返る。
「相沢君を問い詰めないで。私が聞いて、私が振られたの」
「分かった」
榊原先輩は先輩の隣ではなく、半歩後ろへ並んだ。
二人は何も話さず、昇降口へ向かっていった。
◇
帰宅すると、母さんが居間のテーブルに古いノートを置いていた。
表紙には、色の薄れた字で俺の名前と入院した年が書かれている。
「倉庫から届いた箱の、一番奥にあったの」
母さんが俺を見る。
「直哉。入院していた頃のノート、見つかったよ」




