35話 待っていた理由に、名前がついた
美緒は普段通りに学校へ来た。
教室では必要な会話をする。誰かに声をかけられれば答える。それでも、俺と日和の近くへは来なかった。
昼休みも別の友人と食べ、放課後になると一人で帰る。
明るさをなくしたわけではない。
俺たちへ向ける分だけ、自分で止めているのだと分かった。
日和も追いかけなかった。
「今は、あれでいいの」
そう言いながら、美緒が笑うたび少しだけそちらを見る。
二人の友情は、元へ戻らないまま残っていた。
◇
図書委員の日、綾乃先輩は俺の顔を見るなり言った。
「今日は仕事を半分にする」
「俺の体調は悪くないですよ」
「顔の話じゃないよ。返却台を見て」
振り返る。
返却された本は、いつもの半分ほどしかなかった。
「本当に仕事が半分ですね」
「相沢君、疲れてると冗談が通じなくなるんだ」
綾乃先輩が小さく笑う。
「クラスで何かあった?」
「どうして分かるんですか」
「委員長だから、は便利すぎるかな」
先輩はカウンターへ手を置く。
「いつもなら、入ってきたときに時計を見る。今日は一度も見なかったから」
「それだけで?」
「ほかにもあるけど、全部言うと観察しすぎてるみたいで嫌でしょ」
美緒のことを思い出し、返事が遅れた。
綾乃先輩はすぐに察する。
「ごめん。今の、嫌だったね」
「先輩が悪いわけじゃありません」
「でも、相沢君が嫌だと思ったなら止める」
その違いが、今はよく分かった。
相手を見ることと、相手の境界を越えることは同じではない。
「クラスメイトに、好きだと言われました」
綾乃先輩の指が動く。
「篠宮さんではなくて?」
「はい」
「高瀬さん?」
答えずにいると、先輩が苦笑した。
「今ので聞いたことにしないで。本人の話だから」
「すみません」
「謝るのは私。どう答えたかだけ、聞いてもいい?」
「日和が好きだから、応えられないと伝えました」
綾乃先輩は目を伏せた。
「そっか」
それ以上聞かなかった。
仕事へ戻り、返却台の本を分ける。先輩はいつもどおり指示を出し、一年生の間違いを直した。
ただ、俺と目が合う回数だけが減った。
◇
閉館後、自動販売機へ寄った。
綾乃先輩は硬貨を入れたまま、飲み物を選ばない。
「今日は長いですね」
「今、急かした?」
「いつも急かすなと言われるので、確認です」
「学習したんだ」
先輩は桃とミルクティーの間で迷い、結局どちらも押さなかった。
「相沢君。前に、私が待ってた理由を覚えてる?」
「俺が当番へ来るか確かめたかった」
「どうして、来てほしかったと思う?」
「俺に聞くんですか」
「自分の答えはある。でも、口にすると戻れなくなるから」
綾乃先輩はボタンから手を離す。
「高瀬さんに告白されたと聞いて、最初に何を思ったか分かる?」
「分かりません」
「よかった、って思った」
意外な答えだった。
「どうしてですか」
「相沢君が断ったから」
綾乃先輩は自分で言い、苦しそうに笑った。
「そのあと、そんなことを喜ぶ自分が嫌になった。高瀬さんが傷ついたのに、私にはまだ可能性が残ってるって考えたから」
「先輩」
「体育祭で走れたときは、感謝だと思ってた。急に避けられて腹が立ったのは、勝手に決められたからだと思ってた」
一つずつ、自分の感情を確かめるように話す。
「篠宮さんが迎えに来たとき、早く帰してあげたいと思った。でも本当は、来なければよかったのにって思った」
あの日、綾乃先輩が戸締まりを急いだ理由を、ようやく知った。
「私は、人のことなら決められる。誰が何をすれば仕事が進むか、誰へ声をかければ困らないか」
先輩は自動販売機の明かりを見つめる。
「自分のことになると、飲み物一つでも迷う。相沢君のことは、もっと決めたくなかった」
「決めなくてもいいんじゃないですか」
「それは、待ってほしいって意味?」
言葉に詰まる。
綾乃先輩は俺の顔を見て、首を横へ振った。
「違うね。相沢君は篠宮さんが好きだから、私に待ってほしいとは言わない」
「はい」
「ちゃんと答えるんだ」
「曖昧にしたくないので」
「まだ、何も言ってないのに」
「すみません」
「だから謝らないで」
綾乃先輩は笑った。
悲しさを隠す笑顔ではなかった。自分の迷いに呆れているような、人間らしい笑い方だった。
「今、分かった」
「何がですか」
「相沢君が来てほしかった理由。篠宮さんに迎えに来てほしくなかった理由。高瀬さんを断ったと聞いて、ほっとした理由」
硬貨を戻すレバーへ手を掛ける。
今日は何も買わないまま、硬貨を取り出した。
「全部、同じだった」
「白石先輩」
「今日は言わない」
綾乃先輩がこちらを見る。
「感謝と、誰かの面影と、自分の気持ちを、もう少しだけ分けたい」
「俺は何をすればいいですか」
「何もしないで。私の答えだから」
今度は迷わず言った。
「ただ、次の当番にも来て」
「来ます」
「その返事だけで十分」
先輩は自動販売機へ背を向ける。
待っていた理由には、もう名前がついていた。
それを俺へ渡す時期だけを、綾乃先輩は自分で選ぼうとしていた。




