28話 私だけが知らない直哉
翌朝、美緒は日和の机へ行かなかった。
代わりに、俺の机へ小さな紙袋を置いた。
「はい。朝ごはん」
中には焼きそばパンが入っている。
「どうしたんだ、これ」
「相沢君、木曜はいつも焼きそばパンでしょ。今日は購買が混む前に買っておいた」
「木曜?」
「先週もそうだった。図書委員の日だから、曜日まで覚えてた」
今日は木曜日だった。
「よく覚えてるな」
「相沢君のことだから」
美緒は笑う。
日和へ向けていた笑顔とは違う。怒りも寂しさも隠したまま、俺にだけ普段の美緒を見せようとしているようだった。
「昨日のことなら――」
「朝から重い話、やめよ」
「でも」
「今は相沢君と話したい」
美緒は俺の前の席へ座る。
「小学生のとき、何の係だった?」
「急だな」
「私の知らない十年を埋める質問、一個目」
冗談のように人差し指を立てる。
「飼育係」
「何を飼ってた?」
「兎。日和が勝手に名前をつけた」
美緒の笑顔が一瞬だけ止まった。
「日和の話になるんだ」
「同じ学校だったからな」
美緒は黒い蝶の髪飾りへ触れ、次の質問を指で数え始めた。
「好きな季節は?」
「秋」
「犬と猫なら?」
「猫」
「初めて一人で映画を見たのは?」
「質問が多い」
「十年分だから」
美緒は楽しそうに続けた。
俺が答えるたび、スマートフォンのメモへ短く打ち込む。
「そこまで残すのか?」
「忘れたくないもん」
「大した話じゃないぞ」
「相沢君が大したことないと思ってることも、私は知らなかったから」
言い返せなかった。
日和の席を見る。
日和は航平へ競技写真を見せながら笑っていた。こちらへ目を向けないようにしているのが分かった。
◇
昼休み、美緒は俺の隣へ椅子を寄せた。
昨日まで気にしていた距離が、急に近くなっている。
「相沢君、これ好き?」
弁当から小さなハンバーグを差し出す。
「嫌いじゃない」
「じゃあ、あげる」
今度は蓋を求めず、俺のパンの袋へ直接入れた。
「高瀬、もう平気なのか?」
「何が?」
「近いと気になるって言ってただろ」
「気にして離れてたら、取られちゃうから」
美緒は笑った。
誰に、とは聞けなかった。
向かいでは、日和が箸を置いていた。
「美緒。今日、一緒に帰れない?」
「今日は相沢君と話したい」
「直哉は図書委員だよ」
「終わるまで待つ」
美緒は俺を見る。
「いいでしょ?」
「帰る方向、違わないか」
「途中まで同じ」
「美緒、私とは話したくない?」
日和が逃げずに尋ねた。
美緒は箸を置く。
「今話したら、ひどいこと言うと思う」
「言っていいよ」
「日和は言われたら楽になるでしょ。怒られて、謝って、少しずつ元に戻れるって思えるから」
日和の表情が固まる。
「私は、まだ戻りたくない」
「分かった」
「待っててとは言わないよ」
「それでも待つ。私が決めたから」
日和は弁当を閉じる。
美緒もそれ以上言わなかった。
二人の間にあった気軽さは、もう消えていた。
◇
図書委員の当番を終え、昇降口へ向かう。
美緒は本当に待っていた。
靴箱の横でスマートフォンを見ていたが、俺に気づくとすぐ画面を消す。
「お疲れさま」
「一時間以上あっただろ」
「宿題してたから平気」
「教室で?」
「ううん。図書室の近く」
当番中、廊下を通る人影を何度か見た気がした。
「入ってくればよかったのに」
「白石先輩がいたから」
声が少しだけ低くなる。
「先輩とは、何を話してたの?」
「仕事のことだ」
「それだけ?」
「高瀬に全部話す約束はしてない」
美緒の足が止まった。
「ごめん」
謝られ、こちらが戸惑う。
「嫌な聞き方した」
「高瀬」
「でも、知りたいの」
美緒は歩き出さない。
「日和は昔の相沢君を知ってる。白石先輩は、私の知らない放課後の相沢君を知ってる。私だけ、教室で笑ってる相沢君しか知らない」
「知り合って、まだ一か月も経ってないだろ」
「だから追いつきたい」
「十年には追いつけない」
言ってから、きつい言葉だったと気づいた。
美緒は俯く。
「そうだね」
「過去の量の話だ。今の高瀬を、日和より下だと言ってるんじゃない」
「分かってる」
顔を上げた美緒は、笑っていなかった。
「じゃあ、これからの相沢君を教えて」
「これから?」
「今日何を食べたとか、誰と話したとか、何に腹が立ったとか。日和も白石先輩も知らないことを、私に教えて」
「どうして、そこまで」
美緒は一歩近づく。
「相沢君が、私を見つけたから」
胸元へ指を置く。
「誰にも分からなかったのに、相沢君だけ分かった。だったら私も、相沢君のことを誰より分かりたい」
その言葉には、好意だけではない重さがあった。
「高瀬。俺一人だけに分かってもらおうとするな」
「どういう意味?」
「日和も、高瀬が無理してることには気づいてた」
「でも助けてくれたのは相沢君だよ」
「あの日は会議があったから、俺に頼んだんだ」
美緒の表情から、何かが抜け落ちた。
「日和に頼まれたから、助けたの?」
「そうじゃない。俺も自分で気づいた」
「じゃあ、それでいい」
美緒は安心したように息を吐く。
「相沢君が自分で私を見つけたなら、それでいい」
再び笑った顔を見ても、さっきの重さは消えなかった。
◇
その夜、美緒からメッセージが届いた。
『今、何してる?』
『宿題』
すぐに返事が来る。
『何の教科?』
『数学』
『何問目?』
質問は、寝る前まで途切れなかった。
返事を止めると、数分後にもう一通届く。
『寝た?』
画面を閉じようとしたとき、母さんが部屋をのぞいた。
「直哉。入院してた頃のノート、まだ見つからない。引っ越し前の倉庫も探してみるね」
「分かった。急がなくていい」
母さんが扉を閉める。
スマートフォンには、美緒から新しいメッセージが増えていた。
『明日は何時に学校へ来る?』
答える前から、美緒はもう知っている気がした。




