25話 先輩が待っていたのは
次の図書委員当番の日、俺はいつもより五分早く図書室へ着いた。
扉を開けると、綾乃先輩は三人の一年生をカウンター前へ集めていた。
「返却台は一人で全部やらなくていいよ。手前と奥で分けて、終わったほうが貸出を手伝って」
迷いのない指示だった。
一年生たちが動き始めると、先輩は遅れてきた俺へ視線を向ける。
「遅刻はしてないね」
「追い出されたくないので」
「本気にしたの?」
「少し」
「私、怖がられたいわけじゃないんだけどな」
困ったように笑い、カウンターの下から紙の束を出した。
「相沢君は、これを学年ごとに分けて。私も一緒にやる」
「委員長の仕事は?」
「さっき終わらせた」
「早いですね」
「今日、相沢君が来るまでに終わらせようと思ってたから」
「どうしてですか?」
綾乃先輩は答えず、紙の半分をこちらへ渡した。
並んで作業を始める。
前回のように、互いの手が近づくたび距離を意識することはなかった。先輩も仕事の指示だけではなく、一年生が入れた本の場所を見て笑ったり、体育祭で筋肉痛になった話をしたりした。
それでも会話が途切れると、間に琴葉の名前が残っているように感じる。
俺から何か言うべきか迷っていると、綾乃先輩が先に口を開いた。
「相沢君。私、今も誰かに見える?」
手が止まる。
「今は、白石先輩に見えます」
「今は、ってつけるんだ」
「最初のことまでなかったことにするなと言われたので」
「うん。そうだったね」
綾乃先輩は紙へ視線を落とす。
「変な質問をしてごめん」
「聞いてください。俺が答えられることなら」
「答えられないことは?」
「一緒に考えます」
「それ、相沢君が一番苦手なやつじゃない?」
「だから練習します」
先輩が声を立てて笑った。
周囲へ合わせるための穏やかな笑みではない。笑うと少しだけ目尻が下がることを、俺はこの学校へ来てから知った。
◇
閉館時間が近づいた頃、図書室の扉が開いた。
入ってきたのは日和だった。
「相沢君、まだかかりそう?」
学校では初対面のふりを続けているため、呼び方は名字へ戻っている。
「戸締まりが終わったら帰れる」
「そっか。じゃあ、昇降口で待ってる」
日和は綾乃先輩へ頭を下げる。
「白石先輩、体育祭ではありがとうございました」
「お礼を言うのは私のほうだよ。放送、大変だったでしょ」
「楽しかったです。先生には怒られましたけど」
「やっぱり怒られてたんだ」
二人が笑い合う。
綾乃先輩の手元では、持っていた鍵が動かなくなっていた。
日和が俺の机へ、小さな紙袋を置く。
「これ、購買で最後の一個だったから」
「何だ?」
「焼きそばパン。昼、買えなかったって言ってたでしょ」
「覚えてたのか」
「今日のことだから覚えてるよ」
日和は得意そうに笑う。
「じゃあ、先に行ってるね」
「すぐ行く」
日和が出ていったあと、綾乃先輩は閉まった扉を見ていた。
「篠宮さんって、相沢君のことをよく覚えてるね」
「長い付き合いなので」
「学校では、初対面なんだよね」
「今は、そういう約束です」
「変な約束」
「俺もそう思います」
綾乃先輩は小さく笑ったが、今度は目尻が下がらなかった。
「待たせたら悪いから、戸締まりしようか」
「はい」
窓を閉め、返却台を確認する。
綾乃先輩はいつもより早く動いた。日和が待っていることを気にしているようにも、俺と日和を早く帰そうとしているようにも見えた。
最後の照明を消し、廊下へ出る。
そこで榊原先輩が待っていた。
「綾乃。今日、進路の資料を見に行くんじゃなかったのか」
「明日でも間に合うから」
「お前、昼には今日行くって言ってただろ」
綾乃先輩が一瞬だけ言葉に詰まる。
「図書委員の仕事があったの」
「いつもより早く終わってる」
榊原先輩は俺を見た。
それだけで、何を言いたいのか分かった。
「榊原君」
綾乃先輩が低い声で呼ぶ。
「余計なことを言うなって顔だな」
「顔じゃなくて、今言った」
「そうだった」
榊原先輩はそれ以上踏み込まなかった。
「昇降口に日和が待ってるので、俺は先に行きます」
二人へ頭を下げ、廊下を進む。
階段へ差しかかったところで、綾乃先輩が追いかけてきた。
「相沢君」
振り返る。
「さっき、どうして委員長の仕事を先に終わらせたのか聞いたよね」
「はい」
「当番のためじゃない」
先輩は自分の言葉を確かめるように、一度息を吸った。
「相沢君が、本当に来るか待ってた」
「この前、来ると約束しました」
「分かってる。でも、来てほしかった」
綾乃先輩はそこまで言い、困ったように眉を下げた。
「今の私が相沢君を待ってた。それだけ、覚えておいて」
答えを求めず、先輩は榊原先輩のところへ戻っていった。
昇降口へ向かうと、日和が壁にもたれて待】ていた。
「何か聞きたいそうな顔だな」
「聞きたい。でも、直哉の口から言わせて安心するのも違う気がする」
日和は壁から背を離す。
「だから今日は聞かない。代わりに、一緒に帰る」
「最初からそのつもりだっただろ」
「うん。待ってたから」
明るく言い切り、日和は俺の半歩前を歩き出した。
綾乃先輩も日和も、自分から待つことを選んだ。
俺だけが、どちらの気持ちにもまだ名前をつけられずにいた。




