19話 誰かの代わりに見るな
「綾乃が走れたこと、礼を言う」
榊原先輩は、片づけの終わった校庭を見ながら言った。
「俺は聞いただけです」
「それが、あいつには必要だったんだろ」
素直に認めたあと、榊原先輩が俺を見る。
「でも、それとこれは別だ」
声が低くなる。
「一つ聞かせろ。お前、最初から綾乃自身を見てたのか?」
すぐには答えられなかった。
図書室で初めて会った日、綾乃先輩は困っている生徒へ声をかけ、本を半分持ってくれた。
そのとき感じたのは、初対面の相手への興味だけではなかった。長く知っている誰かの隣へ戻ったような、理由の分からない安心感があった。
「昔の日和を、思い出しました」
榊原先輩の眉が動く。
「篠宮を?」
「今とは違います。前は、もっと落ち着いていて、周りを見て先に手を貸すことが多かった」
「それで、綾乃を見たときに安心した」
否定できなかった。
「はい」
榊原先輩が小さく息を吐く。
「やっぱりな」
「でも、今は先輩本人を見ようとしてます」
「お前がそう思ってるだけじゃないのか」
言葉が詰まる。
「綾乃は、お前が最初に誰を見てたのか知らない」
「だからって、今までのことまで嘘にはならないでしょう」
「嘘だとは言ってない」
榊原先輩は俺から目を逸らさなかった。
「あいつが走りたいとお前に言ったことも、お前の言葉で自分から動けたことも本当だ。だから厄介なんだ」
風にあおられ、トラック脇に落ちていた鉢巻きが転がる。
榊原先輩はそれを拾い、近くの用具箱へ入れた。
「綾乃は、人から必要とされると断れない。自分を見てくれた相手には、もっと弱い」
「榊原先輩は、綾乃先輩の何なんですか」
思わず聞くと、榊原先輩は少しだけ目を細めた。
「少なくとも、あいつが誰かの思い出の穴埋めにされるのを黙って見るほど、遠い相手じゃない」
恋人だとも、好きだとも言わない。
けれど、綾乃先輩を大切にしていることだけは伝わった。
「相沢。あの人を、誰かの代わりみたいに見るな」
「見てません」
反射的に答えた。
「なら、綾乃が誰にも似てなくなっても、同じように向き合えるか考えろ」
「先輩は、俺が綾乃先輩を好きだと思ってるんですか」
「お前の気持ちを聞いてるんじゃない」
榊原先輩は短く言った。
「お前の見方で、綾乃の気持ちを動かしていいのか聞いてる」
俺が答えられないまま、榊原先輩は校舎へ戻っていった。
◇
帰宅して机へ向かっても、宿題はほとんど進まなかった。
綾乃先輩が飲み物を決められずに迷うこと。
走るのが好きで、誰にも言わず朝に練習していたこと。
自分で選ぶのは苦手なのに、選択を人へ渡すのは嫌うこと。
それは、昔の日和から借りた印象ではない。俺が綾乃先輩と会ってから知った、本人の一部だ。
けれど、最初に目を留めた理由だけは消せなかった。
誰かに重ねたことから始まり、本人を知っていく。
それは綾乃先輩に対してだけなのか。
日和のことなら何でも知っているつもりだった。炭酸が好きなことさえ知らなかった俺が、十年間、いったい何を見ていたのだろう。
机の引き出しを開ける。
奥には、引っ越しのときに持ってきた古い折り紙が入っていた。目の手術をした頃、見えないまま折った、不格好な鳥。
指先で触れると、あの言葉が蘇る。
『見えなくても、一緒ならできることはあるよ』
穏やかな声だった。
昔の日和の声だと思ってきた。
だが、今日の綾乃先輩も、同じように穏やかな声で人を安心させていた。
似ていると感じたものは、いったい誰のものだったのか。
日和が今の話し方へ変わってから、あの声を直接聞いたことは一度もない。
それでも俺は、病室で聞いた声を日和のものだと、一度も疑わなかった。
折り紙の鳥を机の上へ置いたまま、いつの間にか眠っていた。




