18話 一番に、見つけてほしかった
体育祭当日。
朝から校庭へ強い日差しが落ち、応援席には色とりどりのクラス旗が並んでいた。
俺たちの旗も、その中で風を受けている。白い鳥の右の翼が高く上がるたび、昨日まで教室の床に広げていた布とは思えなくなった。
「相沢君、曲がってない?」
美緒が支柱を押さえながら尋ねる。
「大丈夫。真っすぐだ」
「相沢君の真っすぐ、信用していいのかな」
「まだ字の話を引っ張るのかよ」
美緒が笑う。
以前のように無遠慮に近づくことはなくなった。それでも今日は、旗を挟んで俺の隣から離れようとしなかった。
航平が用具置き場から戻ってくる。
「綱、二本ともあったぞ。俺の二週間、ほとんど綱を数えて終わった気がする」
「お疲れさま」
「軽いな、相沢」
航平が肩を落としたところで、校庭のスピーカーから声が流れた。
『まもなく、開会式を始めます。各クラスの代表は、入場門へ集合してください』
普段より少しゆっくりしているが、日和の声だとすぐに分かる。
『なお、二年生の代表は急いでください。先生が、さっきから時計を見ています』
校庭に笑いが起きた。
「原稿にないことまで言ってないか?」
「日和らしいじゃん」
美緒は放送席を見上げる。
教師に何か言われた日和が頭を下げていた。それでも顔を上げると、また明るい声で次の案内を始める。
「相沢君、すぐ日和って分かったね」
「毎日聞いてる声だからな」
「そっか」
美緒は旗の支柱を握り直した。
「私のことも、声だけで分かる?」
「高瀬は教室のどこにいても聞こえるだろ」
「褒めてないよね、それ」
口では怒りながら、美緒は少し嬉しそうだった。
◇
午前最後の競技は、三年生のクラス対抗リレーだった。
入場門の前に、体操服姿の綾乃先輩がいる。髪を後ろで一つに結び、何度も足首を動かしていた。図書室で見る姿より幼く、緊張も隠していない。
応援席の前を通った先輩がこちらに気づき、片手を上げる。
俺も手を上げて返した。
隣にいた美緒が、その動きを目で追う。
「白石先輩とも約束してたの?」
「自分で選んだところを見てほしいって言われた」
「へえ」
『選手が入場します。三年生のみなさん、最後までバトンを落とさず、頑張ってください』
日和の声が校庭へ響く。
一瞬だけ間が空いた。
『白石先輩も、約束どおり、ちゃんとつないでくださいね』
名指しされた綾乃先輩が放送席を見る。驚いたあと、笑って胸の前で拳を作った。
スタートの合図が鳴る。
綾乃先輩のクラスは、最初の走者から少し遅れた。二人目、三人目とバトンが渡り、先輩が受け取る頃には四クラス中で最後だった。
速いとは言えない。それでも先輩は歯を食いしばり、図書室では見せない顔で腕を振った。
一人へ追いつき、並ぶ。
最後の直線で半歩だけ前へ出た。
三位でゴールした綾乃先輩は、その場へ膝をついた。肩で息をしながら顔を上げ、渡し終えたバトンを高く掲げる。
負けた悔しさより、走れた嬉しさのほうが先に出た笑顔だった。
『三年生のみなさん、お疲れさまでした』
日和の声が続く。
『白石先輩。三位でも、格好よかったです』
今度こそ教師に止められたのか、放送が急に切れた。応援席から笑いと拍手が起きる。
綾乃先輩も笑いながら、放送席へ向かってバトンを振った。
俺が拍手をやめると、美緒がすぐ近くから言った。
「次、私だから」
「覚えてる。十二時四十分」
「見に戻ってきてね」
「約束しただろ」
「白石先輩のときより、大きい声で応援して」
冗談らしい笑い方だった。
だが、美緒の指は俺の体操服の袖をつまんでいた。
◇
昼休憩のあと、用具を運び終えて応援席へ戻る。
二年生混合リレーの選手は、すでに入場門へ並んでいた。
紺色の旗を探す。白い鳥の下で、美緒が何度もこちらを見ていた。
俺を見つけた瞬間、美緒が大きく手を振る。
「相沢君、遅い!」
選手の列から声が飛んできた。
「間に合っただろ!」
「ちゃんと見てて!」
美緒は第三走者だった。
前の走者から二位でバトンを受け取る。小柄な身体を前へ倒し、外にはねた髪を揺らして走った。
すぐ前には一位のクラスがいる。
美緒は差を詰められなかった。それでも後ろから迫る走者へ抜かせず、二位のまま次へつないだ。
バトンを渡したあとも、その場で止まらない。
息を切らしながら応援席の前まで来て、真っ先に俺を見た。
「どうだった?」
「速かった。抜かれなかったな」
「それだけ?」
「最後までフォームが崩れてなかった」
「そこまで見てたの?」
「見ろって言ったのは高瀬だろ」
美緒が笑う。
昨日、旗を褒めたときと同じ顔だった。
「よかった。ちゃんと私を見てた」
言葉の最後だけが、歓声の中でも妙にはっきり聞こえた。
「美緒、水!」
日和が、ペットボトルを持って駆け寄る。
「ありがと、日和」
美緒は受け取った水を一口飲み、日和へ笑いかけた。
「日和の放送も聞いたよ。白石先輩だけ特別扱いしてたね」
「美緒の名前も呼んだでしょ」
「私が走る前に放送終わってたじゃん」
「心の中で呼びました」
「聞こえないよ」
二人はいつものように笑い合う。
けれど日和は、美緒が俺の袖をまだつまんでいることに気づいていた。
「美緒。もう走り終わったよ」
「うん」
返事をしても、美緒はすぐには手を離さなかった。
その三十分後、俺の組は綱引きの一回戦であっさり負けた。
美緒は旗のそばから、「相沢君、腰が高い!」と笑っていた。
◇
閉会式が終わり、最後のロープを倉庫へ戻した。
片づけを終えた日和が、俺のところへ駆けてくる。
「直哉、聞いてた?」
周りに人がいないことを確かめ、日和が尋ねた。
「全部聞いた。先生に二回注意されてたところも」
「白石先輩のリレーは?」
「見た」
「美緒のリレーも?」
「見たよ」
日和は不満そうに頬を膨らませる。
「みんなとの約束、守ったんだ」
「日和が一番長く聞かせてきただろ」
「そういう数え方?」
「放送、よかったよ。原稿にないことを言うたび怒られてたけど」
日和は瞬きをしたあと、照れたように笑った。
「最初にそれを言ってよ」
「聞く前に質問が多いんだよ」
美緒が旗を片づけるため、日和を呼んだ。
日和は数歩進んでから振り返る。
「相沢君。今日見た私を、忘れないでね」
明るく言い残し、旗のところへ駆けていった。
その背中を見送ったとき、後ろから名前を呼ばれた。
「相沢。少しいいか」
榊原先輩が、誰もいなくなったトラックの脇に立っていた。




