15話 先輩は走りたい
次の図書委員当番の日、綾乃先輩は貸出カウンターで体育祭の進行表を見ていた。
返却作業を終えて戻ると、赤いペンで何度も同じ場所へ線を引いている。
「何か間違ってました?」
「ううん。時間を覚えてただけ」
綾乃先輩は進行表を裏返した。
隠すようなものではないはずなのに、動きが少しだけ早かった。
「白石先輩も、体育祭の係なんですか?」
「場内放送を頼まれたの。放送委員の三年生が一人、当日休むことになって」
「委員長だけじゃなく、放送までできるんですね」
「中学のときに少しやっただけだよ。先生が覚えてたみたい」
綾乃先輩は笑ったが、裏返した進行表へ指を置いたままだった。
図書室の扉が開き、榊原先輩が入ってくる。
いつもの窓際へ向かわず、まっすぐカウンターまで来た。
「綾乃。リレーの名簿、見たか?」
「見たよ」
「お前の名前、消えてた」
綾乃先輩の笑顔がわずかに固くなる。
「放送と時間が重なったから、交代してもらったの」
「勝手に?」
「クラスの子には、もう話したよ」
「そうじゃない。放送を引き受ける前に、誰かへ相談したのかって聞いてる」
綾乃先輩は答えなかった。
「またか」
榊原先輩が低く息を吐く。
「榊原君、図書室では静かに」
「今、それを言うのか?」
「仕事中だから」
「分かった。もういい」
榊原先輩は何も借りず、図書室を出ていった。
扉が閉まる音だけが、静かな室内へ残った。
◇
利用者がいなくなってから、閉館作業を始めた。
綾乃先輩はいつもどおり窓を閉め、椅子を机の下へ戻していく。
「榊原君、怒ってたね」
先輩のほうから口を開いた。
「心配してるんじゃないですか」
「分かってる。でも、ああいう言い方をされると意地になっちゃう」
「リレー、出る予定だったんですか?」
「うん。クラス対抗の最後」
綾乃先輩は窓の向こうを見る。
校庭では、運動部の生徒たちがトラックを走っていた。
「四月から、朝に何度か練習してたんだ。私、そんなに速くないから」
「走るのが好きなんですか?」
「好きだよ。意外?」
「少し」
「やっぱり」
綾乃先輩が笑う。
以前なら、その笑顔を見て、放送でも平気なのだと思ったかもしれない。
けれど、美緒も同じように笑っていた。
相手を安心させるための笑顔と、本人が平気であることは同じではない。
「放送とリレー、どっちでもいいんですか?」
「どちらも大事だから」
「それは、どっちでもいいって意味じゃないですよね」
綾乃先輩の手が止まる。
「俺が決めることじゃないですけど、白石先輩はどっちを選びたいんですか?」
すぐに答えは返ってこなかった。
校庭から、短い笛の音が聞こえる。
「放送を断ったら、先生が困るよ」
「先輩が何を選びたいかを聞きました」
「相沢君、今日は厳しいね」
「榊原先輩みたいでした?」
「榊原君は、答えまで先に言うから」
綾乃先輩は困ったように笑う。
「相沢君は、聞くだけなんだね」
「先輩が、自分のことを誰かに決められるのは嫌だって言ったから」
自動販売機の前で聞いた言葉だった。
綾乃先輩は覚えていたことに驚いたように、俺を見る。
やがて窓へ向き直り、トラックを走る生徒たちへ目を向けた。
「本当は、走りたい」
声は小さかったが、今度は笑っていなかった。




