13話 怒れないのが、いちばん悔しい
翌朝、美緒はいつものように俺の机へやってきた。
「相沢君、おはよう!」
声は明るい。
けれど、昨日までなら机へ両手をついて顔を近づけていたのに、今日は一歩分離れている。
「おはよう。昨日はちゃんと寝たか?」
「寝たよ。十時前に」
「ならいいけどさ」
「……うん」
美緒はそれだけ答え、自分の席へ戻っていった。
隣で教科書を出していた日和が、その背中を見送る。
「美緒と何かあった?」
「昨日、体育祭の作業を手伝った」
「それだけ?」
「ほかに何があるんだよ」
日和は俺の顔をじっと見る。
「相沢君の場合、本当にそれだけなんだろうなって顔してる」
「だから、人の顔を勝手に読むな」
「分かりやすいのが悪いんです」
日和は前を向いたが、少し不満そうに唇を尖らせていた。
◇
放課後の作業で、クラス旗へ色を塗ることになった。
床へ新聞紙を敷き、紺色の布を広げる。白い鳥の輪郭は完成していたが、絵の具と太い筆が足りない。
「買い足さないと無理だね」
日和が空になった絵の具の容器を持ち上げる。
「私、全体会議があるから行けない。森川君は体育倉庫だよね?」
「綱引きの綱を数えてくる。何本あれば足りるのか知らないけど」
航平が軍手を鞄へ入れながら答える。
「じゃあ、相沢君と美緒で買ってきてくれる?」
美緒の肩がわずかに揺れた。
「私、一人でも大丈夫だよ」
「絵の具だけじゃなくて、筆とテープもある。荷物になるだろ」
俺が言うと、美緒は一度日和の顔をうかがった。
「じゃあ、お願いしようかな」
「決まり。お金はこれ」
日和が封筒を俺へ渡す。
笑顔ではあったが、指先が封筒をすぐには離さなかった。
「何だよ」
「買ったら、寄り道しないで戻ってきてね」
「子供じゃないんだから」
「美緒に言ってるの」
「私?」
美緒が目を丸くし、日和はようやく封筒を離した。
◇
学校から十分ほど歩いたところに、文房具店があった。
必要な絵の具を籠へ入れ、筆の太さを美緒と確かめる。
「こっちが二本と、細いのが一本」
「細いのもいるのか?」
「羽の先を直すときに使うの。相沢君は太いので真っすぐ塗って」
「信用されてないな」
「昨日の文字、右に上がってたから」
「まだ言うのかよ」
美緒が笑う。
昨日までと同じ笑い方だったが、俺と目が合うと、すぐに商品棚へ顔を向けた。
会計を終え、二人で袋を分けて持つ。
帰り道でも、美緒はいつもより半歩離れて歩いていた。
「高瀬、何で離れてるんだ?」
「離れてないよ」
「昨日まで、もっと近かっただろ」
「私だって、少しは気をつけるようになったの」
「急だな」
「誰のせいだと思ってるの」
美緒が小さく呟く。
「俺?」
「何でもない!」
急に歩く速度を上げる。
追いつくと、美緒は困ったような顔で俺を見た。
「昨日のこと、ありがとう」
「作業なら、準備係だからやっただけだ」
「そういう言い方してくれるところも」
「どういう意味だ?」
「私だけ助けてもらったって思わなくて済むでしょ」
美緒は袋を持ち直す。
「でも、本当は嬉しかった。私が大丈夫って言ったのに、大丈夫じゃないって分かってくれたこと」
まっすぐ言われ、返事に迷う。
「今度から、無理なときは言えよ」
「相沢君になら?」
「俺でも、日和でも、航平でもいい」
「そこは相沢君って言ってよ」
美緒は黒い蝶の髪飾りへ触れたあと、自分の言葉に気づいたように顔を赤くした。
「今のなし」
「どれが?」
「全部!」
美緒はまた先へ行く。
今度は追いつかず、その背中を見ながら歩いた。
◇
教室へ戻ると、日和が一人で黒板の予定を書き直していた。
「おかえり。遅かったね」
「予定どおりだろ」
「三分遅いです」
「細かい」
美緒が袋を机へ置く。
「日和、全部買えたよ。私、先生に旗を見せてくるね」
「うん。ありがとう」
美緒は丸めた旗を抱え、教室を出ていった。
扉が閉まると、日和がチョークを置く。
「美緒、楽しそうだった?」
「昨日よりは」
「そっか」
日和は安堵したように笑った。
それから、美緒が出ていった扉を見て、少しだけ目を細める。
「直哉が気づいてくれて、よかった」
「日和も気づいてただろ」
「気づいたときには、会議を抜けられなかったから」
日和は悔しそうに言い、俺の前まで来る。
「美緒のこと、ちゃんと見てたんだね」
「無理してたからな」
「うん。分かってる」
日和は俺の制服の袖をつまんだ。
「だから、怒れないのがいちばん悔しい」
「何に怒るんだ?」
「直哉には、まだ分からなくていい」
「またそれか」
「これは、私が言うことじゃないから」
日和は袖を離さず、一歩近づいた。
「でも、私も譲るつもりはないよ」
「何を?」
「今の私を見てもらうこと」
日和がまっすぐ俺を見る。
「ほかの誰かをちゃんと見るのはいいけど…私のことも、ちゃんと見てよね」




