12話 笑っているのに、楽しそうじゃない
それから数日、美緒はずっと忙しそうだった。
朝は誰より早く教室へ来て、旗の下書きを直す。休み時間には、出場種目を変えたい生徒の話を聞く。昼休みになれば、応援用の札へ文字を書いていた。
それでも、誰かに声をかけられると必ず笑う。
「美緒、これもお願いしていい?」
「いいよー。そこ置いといて」
「助かる!」
机の隅へ、新しい紙が積まれる。
美緒は相手が離れてから、その紙を見て一度だけ息を吐いた。
隣で弁当を開いていた日和が、眉を寄せる。
「美緒、昨日ちゃんと寝た?」
「寝たよ。動画を見てたら、ちょっと遅くなったけど」
「何時?」
「二時くらい?」
「それは寝たって言わない」
日和が呆れ、美緒は舌を出して笑う。
いつもの二人のやり取りに見えた。
けれど美緒は、弁当に一度も箸をつけていない。
笑う直前には、必ず相手の顔を見ていた。大丈夫だと思ってもらえる表情を選ぶように。
本当に楽しいときの美緒は、相手の反応を待たずに次の言葉が飛び出す。
今は、笑うことまで仕事にしているように見えた。
「高瀬、弁当」
指さすと、美緒が目を丸くする。
「あ、忘れてた」
「食べるのまで忘れるなよ」
「お母さんみたい」
「誰がお母さんだ」
美緒は笑い、ようやく箸を持った。
◇
放課後、日和は体育祭係の全体会議へ呼ばれた。
航平も用具の数を確かめるため、体育倉庫へ向かう。
「相沢君、美緒をお願いね」
教室を出る前、日和が俺へ小声で言った。
「何をだよ」
「ちゃんと帰らせて」
日和も、美緒が無理をしていることには気づいていたらしい。
ただ、全体会議を休むわけにもいかない。
「分かった」
答えると、日和は安心したようにうなずいた。
教室に残ったのは、俺と美緒だけになった。
美緒は黒板へクラス旗の下書きを貼り、床へ長い布を広げている。
「相沢君、先に帰っていいよ」
「俺も準備係だ」
「相沢君の分は終わってるでしょ?」
「高瀬の分は増えてるけどな」
机の上にある作業を数える。
旗の輪郭を布へ写す。応援札へ文字を書く。配布文を清書する。出場種目の変更を一覧へ反映する。
「それ、半分よこせ」
「え?」
「札と配布文は俺がやる。高瀬は旗を進めろ」
「でも、頼まれたのは私だよ」
「頼んだ奴は、誰が書いたかまで見ないだろ」
「そうだけど」
美緒は笑おうとして、やめた。
「私、本当にこういうの嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃないのと、平気なのは別だろ」
返事がない。
美緒は布の上へ視線を落とし、鉛筆で描いた白い鳥の翼を指でなぞった。
「どうして分かったの?」
「何が?」
「私が平気じゃないって」
手にした紙を机へ置く。
うまく説明しようとすると、かえって嘘っぽくなりそうだった。
「高瀬、本当に楽しいときは、もっと勝手に喋るから」
「ひどい」
「褒めてる」
「今の、どこを?」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
「今日は誰かに頼まれるたび、笑う前に相手の顔を見てた。断ったら困らせると思ってたんだろ」
美緒の目から笑いが消える。
「頼ってくれたのに、できないって言うの、嫌なんだ」
「何で?」
「がっかりされるから」
美緒は鉛筆を握り直す。
「明るくて、何でも楽しんでやるのが私だって、みんな思ってるでしょ。だったら、そのほうが楽だし」
「楽なら、昼飯を忘れないだろ」
「それは……そうだけど」
「次から全部断れとは言わない。でも、今日は半分よこせ」
手を出すと、美緒はしばらく俺の手のひらを見ていた。
やがて配布文と札の束を載せる。
「字、汚くしないでね」
「人に渡しておいて注文が多いな」
「そこは大事だから」
今度の笑顔は、相手へ見せるために作ったものではなかった。
◇
二人で作業を始めると、思ったより早く進んだ。
美緒が旗の輪郭をなぞり、俺が札へ文字を書く。ときどき互いの作業を見て、直したほうがいい場所を言い合った。
「相沢君、その字、右に上がってる」
「真っすぐ書いたつもりだ」
「性格が出てるのかも」
「どういう性格だよ」
「自分では真っすぐだと思ってる性格」
「高瀬にだけは言われたくない」
美緒が声を上げて笑う。
昼間より大きく、こちらの反応を待たない笑い方だった。
作業が終わる頃には、窓の外が赤くなっていた。
美緒は完成した旗の下書きを両手で持ち上げる。
「終わったー!」
「まだ色塗りが残ってるけどな」
「今だけ達成感に浸らせてよ」
机へ旗を置き、美緒は俺を見る。
「相沢君って、ちゃんと人のこと見てるんだね」
「見てたというか、分かりやすかっただけだ」
「日和には言った?」
「何を?」
「私が無理してたこと」
「言ってない。高瀬が自分で言えばいいだろ」
美緒は目を伏せたあと、少し困ったように笑った。
「そういうこと、女の子にしたら駄目だよ」
「何が?」
「……分からないなら、今はいい」
美緒は先に鞄を持ち、逃げるように教室を出ていった。




