EP143 影の走者たち
予選の熱狂が去り、工都に再び静かな夜が訪れていた。 しかし、『ガレージ・クラフツ』の工房だけは例外だった。カチャン、カチャンと金属工具がぶつかり合う音と、蒸気機関の残熱が立ち上る暖かい空気が満ちている。
明日はいよいよ、勝ち残った8名によるグランプリ決勝。 カイエンとモエは、夜遅くまでそれぞれの機体――《レギュレーター》と《カーピー》の最終メンテナンスを行っていた。
「ふう……! シリンダーのトルクチェック完了! ブースターのバルブも清掃したし、これで明日は万全ね!」
モエは額の汗を作業つなぎの袖で拭うと、冷えた缶ココアを二つ持ってカイエンの隣に腰掛けた。 カイエンは巨大な《レギュレーター》の脚部装甲を布で丁寧に磨いていたが、出された缶を受け取ると静かに一口口にした。
「……助かった」
「へへっ、いいのよ。それにさ……」
モエは缶ココアを両手で包み込みながら、少し照れくさそうに微笑んだ。
「……今日は、ありがとう。カイエン」
「いや。俺はただ、自分のやるべきことをしただけだ」
「それでもよ。あんたが予選で豪快に瓦礫を吹き飛ばしてくれたおかげで、観客もみんな『ガレージ・クラフツ』の凄さに気づいてくれた。……私ね、お父さんが残してくれたこのガレージ、絶対潰したくなかったから。嬉しかったの」
カイエンは静かにモエの顔を見つめ、いつもの無愛想な声で言った。
「そうか。なら、明日も最後まで壊さずに走るだけだ」
「うんっ! 一緒に決勝、暴れてやろうね!」
と、その時――工房の半開きになったシャッターの隙間から、ひょっこりと人影が顔を出した。
「……お邪魔しても、いい?」
「あ、ナナちゃん!?」
入ってきたのは、漆黒のレーサースーツに身を包んだナナ・クロムウェルだった。 昼間の予選での壮絶な激走の疲労が見えるものの、その澄んだ藍色の瞳はしっかりと力強くカイエンを見つめている。
「予選の走り、見たわ。……あなたの機体、本当に凄いのね。どんな衝撃にも折れない……まるで大きな岩みたい」
「カイエンの頑丈さは筋金入りだからね!」とモエが鼻を高くする。
ナナはカイエンの前まで歩み寄ると、すっと背筋を伸ばして小さく頭を下げた。
「あのね……ありがとう。予選であなたがコースの瓦礫を粉砕してくれたから、後半のグループだった私も走りやすくなったの。父親には怒られちゃったけど……私、逃げずに走れてよかった」
「感謝されるようなことではない。俺は邪魔なものを排除しただけだ」
「ふふ、冷たい言い方だけど、あなたらしいわね」
ナナはクスッと小さく笑うと、真剣な眼差しでカイエンの瞳を見つめ返した。
「――決勝で会おう、カイエン。私、絶対に負けないから」
「あぁ。無事でいられるよう、精一杯走るといい」
ナナは力強く頷くと、嵐のように去っていった。 残されたモエが「もう〜、あの子も不器用なんだから!」と笑う。
◇
パーツの補充と廃油の廃棄のため、カイエンは一人で夜のサーキット裏手にある資材置き場へと足を運んでいた。 薄暗い路地裏、蒸気パイプから白い煙がモヤのように立ち込める中、一人の男が壁に背を預けて佇んでいた。
水色の短髪に、白い肌。 前年度チャンピオン――ゼノス・ヴァイスだった。
ゼノスはカイエンの足音に気づくと、青い瞳を冷ややかに向けた。
「……ガレージ・クラフツの枠組みか。予選ではとんでもない大立ち回りを演じてくれたな」
「……」
カイエンは無言でゴミ箱に廃棄パーツを放り投げ、ゼノスへと視線を向けた。
「昼間のDブロックのレースを見た。大手企業の機体群が、ナナ・クロムウェルを露骨に壁へ押し潰そうとしていたな」
ゼノスの身体が一瞬、ぴくりと硬直する。
カイエンの「事象解析の魔眼」は、すでに看破していた。 あの妨害工作を指示したスポンサー企業の背後。そして、ゼノスが所属するチームの紋章が、全く同じ巨大コンツェルンの傘下であるということを。
カイエンは淡々と、しかし鋭く問いかけた。
「他機をクラッシュさせ、物理的に排除する……ずいぶん汚いレースだな。昨年の覇者のチームがやることか?」
「……」
ゼノスは自嘲気味に口元を歪め、視線を夜空へと向けた。
「……仕事だ」
「仕事?」
「そうだ。俺たちはレーサーである前に、スポンサーに買われた『商品』だ。上位を独占し、他社の評判を叩き落とし、自社のアーティファクトの優秀さを証明する……そのためなら手段を問わないのが、あの連中のやり方だ」
ゼノスの両拳が、絞り出すように固く握りしめられる。
「俺だって……そんな汚い真似、やりたくてやってるわけじゃない! だが『やれ』と言われれば従うしかないんだ。従わなければ、パーツの供給を止められ、レーサーとしてのライセンスも剥奪される……!」
吐き出された声には、前年チャンピオンという華やかな肩書の裏に隠された、深い絶望と葛藤が滲み出ていた。
「勝たなきゃ食えないんだよ……! 綺麗な走りだけで生き残れるほど、この工都の裏側は甘くない……!」
ゼノスもまた、大人の欲望に翼を縛られた被害者の一人に過ぎなかったのだ。 スポンサーからの「どんな手段を使っても勝て」という絶対命令。反逆の許されない現実の中で、彼は自分の誇りを押し殺してハンドルを握り続けていた。
カイエンは静かにゼノスを見つめ、短く息を吐いた。
「……そうか」
「……あいつ(ナナ)を甘やかすな。明日の決勝、俺たちのチームはさらに苛烈な仕掛けをしてくるはずだ。死にたくなければ、今すぐ辞退することだな」
ゼノスは吐き捨てるようにそう言い残すと、水色の髪を夜風に揺らしながら、暗がりの中へと去っていった。
夜の闇の中に残されたカイエンは、静かに己の胸元に手を当てた。 事象の歪み、欲望の暴走、そして理を失った街のシステム。
「……整理しなければならないものが、多すぎるな」
カイエンの低く通る呟きだけが、夜の工都の排気音の中に静かに消えていった。
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