EP133 ピンクの風
工都の市場は、都市そのものが呼吸しているかのような熱気と騒音に満ちていた。
露店が隙間なく並ぶ大通りには、焼き肉や香辛料の香ばしい匂いと、機械油や溶接の放つ金属臭が混ざり合い、漂っている。 露店に並ぶ品々も実にこの街らしい。色鮮やかな果物やパンの隣で、用途の解らない巨大な油圧ボルト、高純度の魔導ケーブルの束、怪しげなジャンク品の電子回路が同列に売りに出されていた。
「そこのお兄さん! 12気筒の型落ちブースター、投げ売り価格でどうだい!?」 「うちの魔導潤滑油は冷却性能が違うよ! グランプリの調整にどうだ!」
怒号のような呼び込みと、排気管から吐き出される白煙の中を、カイエンは静かに歩いていた。
一人になった旅路。 エルフの聖域での死闘を乗り越え、魔剣の真実と身体の侵食を止める手がかりを求めてここへ辿り着いた。長旅の疲れを癒やす暇もなく、レース開幕を控えた街の狂騒に身を晒しながら、カイエンは周囲の地形や人々の動向を「元・最高監査員」の癖で無意識に観察していた。
だが――ほんのわずかな、気の緩み。
(……静かだな)
隣を歩く、やかましい技術屋の少女の「〜であります」という声も、賑やかな隠密の少女の「カイエン!」と呼ぶ声もない。 一人の静けさに慣れようとしていた、その刹那だった。
すれ違いざま、すっと腰元をかすめたかすかな空気の揺らぎ。
(――ん?)
違和感を覚えて視線を落とした時には、すでに遅かった。 腰のベルトに結え付けられていた革の財布――その結び目が、刃物で滑らかに切断され、跡形もなく消え去っていた。
「おい」
数歩先。人波の隙間をすばしっこくすり抜けていく、フードを被った小さな影があった。手元には、見覚えのある手垢のついた革袋が握られている。
カイエンは一瞬、追うことも忘れて自嘲気味に息を吐いた。
(そういえば……昔、シルフェリアの市場でヒナと初めて出会った時も、こうして盗まれたんだったな……あの時は魔法器具だったが…)
あの時は、まんまとスリ取られて追う羽目になった。 あいつの手癖の悪さと、どこか憎めない生意気な笑顔。 一人になった途端、昔の思い出に浸って気を抜くとは、自分も焼きが回ったものだと苦笑する。
(元・帝国最高監査員が、二度もスリに遭うなど……笑えん)
「ハッ……ハッ……!」
フードの盗人はチラリと後ろを振り返り、カイエンが自分を追ってきていることに気づくと、露店の陰や人波を縫って速度を上げた。
「すまん、通るぞ」
カイエンは短く呟くと、足裏に最小限の魔力を込めた。 雑踏の揺れと同調し、他人と衝突することなく滑るように人波をかわしていく。体配を消し、距離を無駄なく詰める足さばき。どれほど盗人がすばしっこく逃げ回ろうと、カイエンとの間合はみるみる縮まっていった。
「くそっ! なんなんだアイツ、歩いてるみたいに追いついてきやがる!?」
盗人は青ざめた顔で舌打ちすると、大通りを外れ、両脇を巨大な黒鉄のビルに囲まれた薄暗い路地裏へと飛び込んだ。 そこは、奥が立ち入りの不可能な高圧蒸気パイプで塞がれた、行き止まりの空間だった。
「ハッ、ハッ……くそっ、追い詰められた……!?」
盗人が背後の壁に背をつけ、青ざめた顔でナイフを抜く。 路地の入口には、追いついたカイエンが静かに立っていた。
「財布を返してもらおう。無用な争いはしたくない」
カイエンは紅い魔眼を静かに光らせ、盗人の退路を完全に遮断した。事象を解析する視界の中では、盗人の筋肉の緊張、呼吸の乱れ、逃走経路の可能性がすべて数値化されて浮かび上がっている。抵抗の余地など、はじめから存在しない。
盗人が恐怖に顔を歪め、財布を差し出そうとした――その時だった。
――ガリリリリリリッ!!!
頭上遥か高所の鉄骨から、甲高い金属の摩擦音と、空気を引き裂く重厚な駆動音が鳴り響いた。
「そこまでよ、泥棒さん!!」
凛とした、鈴の鳴るような高い少女の声が路地裏に木霊する。
カイエンが視線を上げると同時に、ビルの屋根の隙間から、眩い陽光を背にして“ピンクの影”が躍り出た。
「なっ……!?」
盗人が見上げた瞬間には、すでにその影は頭上に迫っていた。
頭上から降ってきたのは、日光を反射して色鮮やかに輝く、細身で流線型の最新鋭パワードスーツだった。 全身を包む装甲は洗練された桜色のメタリックピンク。武骨なドワーフの機械とは一線を画す、美しさと機能美が完璧に調和したデザインだ。
ドォンッ!!
激しい着地音が路地裏に轟き、鉄板の床が歪む。 関節部の排気口からシュウウゥッと過熱した白蒸気が噴き出し、白い帳を作った。
だが、驚くべきはその後の動きだった。
パワードスーツ特有の「重量の殺しにくさ」が一切ない。 着地の衝撃を背部の高出力ブースターの逆噴射で一瞬にして相殺すると、機体は滑らかに軸足を旋回させ、まるで舞踊のような美しい動作で腰のグラップリングガンを引き抜いた。
カツゥンッ!
射出された鋼鉄のワイヤーが、蒸気の幕を切り裂いて走る。 悲鳴をあげる猶予すら与えられず、盗人は両手両脚を正確にしならせたワイヤーで絡め取られ、瞬く間に逆さ吊りにされて路地の天井へと巻き上げられた。
「ひぃやあぁぁぁっ!?」
機体が静止し、背部と脚部の冷却バブルが閉じる。 出現から着地、そしてスリの無力化まで、時間にしてわずか二秒足らず。
(……速い)
カイエンの目が、驚きに細められた。
ただ機械の馬力に頼った速度ではない。 操縦者の反射神経、体幹の軸のブレなさ、そしてパワードスーツとの「同調率」が異常なまでに高い。機体の性能を百パーセント引き出し、まるで己の皮膚のように扱っていなければ、今の着地からのワイヤー拘束は不可能な芸だった。
「ふぅ……間一髪セーフ! 見逃さないわよっ!」
プシューッという減圧音とともに、ピンクのヘルメットのバイザーがカシャリと後方へスライドした。
現れたのは、汗で額に貼りついた明るい髪と、勝気な強い光を宿した大きな瞳を持つ少女だった。 彼女は自分の戦果に満足そうに頷くと、逆さ吊りにされた盗人の懐からサッと革財布を抜き取った。
そのままクルリと一回りしてカイエンに向き直ると、重量感のある金属の脚部を感じさせない軽やかなステップで近づいてくる。
「はい、これあなたの財布でしょ? 感謝しなさいよね! この工都の平和は、この私が守ってるんだから!」
少女はピンクの胸甲をドンと叩き、誇らしげに胸を張った。
カイエンは差し出された自分の財布を受け取り、感心と警戒が半々に入り交じった視線で、目の前の「ピンクの風」を見つめた。
ひしひしと、某ピンクの悪魔が浮かんでくると思います。
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