EP118 王の試練
重厚な大理石の扉が、地鳴りのような音を立てて観音開きに押し開かれた。
扉の先に広がっていたのは、黒く冷たい殺戮の場でも、歪んだバグがうごめく異形の間でもなかった。 天井には無数の黒い結晶が星々のように微かな光を湛え、まるで穏やかな夜空を見上げているかのような、不思議な静寂に包まれた円形の大広間。
そして、その中央高くに鎮座する古びた玉座に、一人の男が腰掛けていた。
見た目は四十代後半。深みのある白髪を交えた髪に、穏やかな目元。豪華な王冠や過剰な威圧感はなく、その佇まいはまるで、旅人を優しく迎える田舎の領主のようだった。 彼がかつて、世界を滅ぼしかねない災厄ごと自らの国を地中深くへと沈め、永遠の棺となった王――エドガルドであった。
「よく来た」
エドガルド王は立ち上がろうともせず、剣を抜く素振りすら見せない。 声を荒げることもなく、まるで昔からの知人を迎えるかのように、温かな声音でカイエンたちを見つめた。
「長い旅だったな。……疲れただろう」
敵意の一片すら感じられないその言葉に、背後に控えるヒナ、アイフェリス、マキマの三人は息を呑み、思わず身構えた。 だが、カイエンだけは左手に嵌めた「黒い指輪」の微かな脈動を感じながら、静かに歩みを進めた。
「……あなたが、エドガルド王か」
「いかにも。私がこの滅びし国の王、エドガルドだ」
王はふっと目元を緩め、どこか愛おしそうにカイエンの左手を見つめた。
「アゼルからその指輪を受け取ったのだな。……あの不器用な男が、他人にそれを託すとは。お前という人間を、心から認めた証だ」
カイエンは答えない。ただ、事象の糸を手繰り寄せる魔眼で、王の存在そのものを静かに「解析」しようと試みる。 しかし、目の前の王からは、破壊的なバグの気配も、使徒のような狂気も感じられない。そこにいるのは、ただ深く民を愛し、戦争を何よりも嫌い、かつて領地の子供たちの名前を一人残らず覚えていたという、ただ一人の「穏やかな人間」の残滓だった。
エドガルド王は玉座に深く背を預けたまま、静かに口を開いた。
「カイエンと言ったな。……お前がここへ至るまでに切り伏せてきた、私の5人の騎士たち。彼らは、私をどう語っていた?」
「試練か」
「いや、ただの老人の身勝手な問いかけだよ。どうか教えてくれないか。……彼らは最期に、何を思っていたのかを」
カイエンは少しの間、沈黙した。 脳裏に浮かぶのは、これまで刃を交えてきた忠臣たちの姿だった。 圧倒的な忠義を貫いた者、後悔を抱え続けた者、軍師として大局を見据えていた者、そして最後の看守として散った者。
カイエンは淡々と、しかし彼らの生き様を一つひとつ噛みしめるように答え始めた。
「第一の騎士は言っていた。『王は正しかった』と。己の命を投げ打ってでも、あなたの選択を絶対の正義だと信じ抜いていた」
エドガルド王は、悲しげに目を伏せた。
「……第二の騎士は言っていた。『王は間違っていた』と。民を救うために国を殺すなど、王の選ぶ道ではないと、死すまであなたを咎め続けていた」
王は深く息を吐き出し、静かに頷いた。
「第三の騎士は言っていた。『宰相だけが悪いわけではない』と。国の歪みは一人の悪意ではなく、時代の構造が生んだ必然だったのだと」
「……」
「第四の騎士は言っていた。『国民もまた、王を見捨てたのだ』と。平和に甘んじ、王一人にすべての重荷を背負わせた民の弱さを嘆いていた」
王の目から、すっと一筋の光がこぼれ落ちる。
そして、カイエンは左手の黒い指輪をそっと撫でながら、最後に残された「影」の名を口にした。
「――そして、第五の騎士アゼルは言っていた。『ただ、もう一度皆で酒が飲みたかった』と。正義も、罪も、使命すらも超えて……本当はただ、仲間たちとバカみたいに笑い合える穏やかな日々に戻りたかったのだと」
「っ……」
エドガルド王の息が詰まった。
数百年もの間、決して揺らぐことのなかった王の表情が、激しい感情の波に大きく揺れる。
「……酒、か。……あのバカ者が。最後まで……自分自身のことなど何一つ望まず、ただそれだけを……」
王は掠れた声で呟き、天を仰いだ。目元を覆うその手が、小さく震えている。
5人の騎士たちが遺した、5つの相反する、けれどあまりにも愛おしい答え。
カイエンは紅い魔眼でまっすぐにエドガルド王を見据え、言葉を締めくくった。
「――彼らの言葉をすべて重ね合わせるなら、答えは一つだ」
「ほう……?」
「『全員が悪かった』。王も、騎士も、宰相も、民も。……誰一人として正解を選べず、全員が迷い、傷つき、崩壊を選んだのだ」
静寂が、広間を支配した。
「……くくっ」
王の口からこぼれたのは、怒りでも絶望でもなく、心からの穏やかな笑い声だった。
「ははは……そうか。全員が悪かった、か」
エドガルド王は微笑みを浮かべ、満たされたような目で天井の星々を見上げた。
「……皆、私より賢くなったな」
そう言って穏やかに目を細めていたエドガルド王が、静かに笑みを収めた。 ふう、と深く息を吐き出す。ただそれだけの動作だった。
だが、次の瞬間――王がゆっくりと玉座から腰を上げた。
「――っ!?」
ヒナが思わず息を飲み、アイフェリスが咄嗟に杖を前に構え、マキマがその豊かな胸を緊張で上下させながら拳を握りしめる。
空間の圧力が、一瞬で跳ね上がった。
それは殺意や憎悪といった醜悪なものではない。狂気でもバグの歪みでもない。 ただ、どこまでも冷たく、どこまでも静かで、途方もなく重い――「一国の王」としての絶対的な威厳。
先ほどまでそこにいた「子供好きで穏やかな中年男」の気配は、完全に消えていた。 背筋を真っ直ぐに伸ばし、立ち上がったエドガルド王の瞳からは、一切の迷いも、揺らぎも、そして感情すらも削ぎ落とされていた。
焦らない。怒らない。 数百万の民の命をその背に背負い、国そのものを地底へと沈めるという過酷極まる決断を下した男の、恐ろしいほどの冷徹さと冷静さ。
「……立ち上がるか、エドガルド王」
カイエンは紅い魔眼を光らせ、腰の魔剣の柄にそっと手をかけた。 王に殺意がないことは、事象を解析する魔眼がはっきりと示している。これは命の奪い合いではない。
「5人の騎士は、私にそれぞれの答えを遺して逝った」
エドガルド王は、感情の失われた無機質な、しかし静かに響き渡る声で言った。 その視線はまっすぐにカイエンを捉えている。
「彼らの想いを背負い、その指輪を嵌めてここまで辿り着いた者よ。ならば最後に――お前自身の答えを見せよ」
王の手が、玉座の脇に立てかけられていた一振りの儀礼剣へと伸ばされる。 剣身が鞘から滑り出るシャリ、という透き通った音が、静寂に包まれた大広間に小さく鳴り響いた。
王は悲しみも、後悔も、哀惜も、すべてを己の心の奥底へと押し込める。 その横顔は、あまりにも美しく、そしてあまりにも孤独だった。
誰にも見せることのない絶望を胸に秘め、王は静かに呟く。
「……王は」
剣先をまっすぐにカイエンへと向けながら、王はその言葉を吐き出した。
「王は――泣いてはいけない」
遂に王との謁見です!
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