EP116 黎明の残響
アゼルの背後に広がる「夜空の翼」が、これまでにないほど激しく脈動した。 星々の粒子が聖堂の瓦礫を巻き上げて上昇し、アゼルの掲げる魔剣へと吸い込まれていく。第一騎士の盾、第二騎士の炎、第三騎士の氷、第四騎士の光――それらすべての魔力が、ノクスの黒い刃の周囲で完璧な螺旋を描き、超高密度のエネルギー体へと圧縮されていく。
アゼルは、左右異なる双眸でカイエンをまっすぐに見つめた。 その表情は、どこまでも穏やかで、満ち足りていた。
『――次で、最後にしましょう』
アゼルの精神感応の言葉が、カイエンの脳裏に静かに、絶対の宣告として響く。
「……ああ。これで終わりだ」
カイエンは『深淵の断罪者』の漆黒の魔力を、自らの肉体が崩壊する限界を超えて絞り出した。 魔眼から一筋の血が流れ落ち、視界が真っ赤に染まる。だが、その赤いノイズの向こう側に、アゼルの放つ究極の一撃の「事象の糸」が、はっきりと見えた。
ハッ、とアゼルが踏み込んだ。 夜空の翼が羽ばたき、すべての属性を内包した魔剣が、空間そのものを消滅させる軌道で振り下ろされる。
カイエンは逃げない。退かない。 禁忌の魔剣を両手で握り締め、心臓の鼓動を、魔力の脈動を、世界のバグ・コードを、一瞬の「無」へと同調させた。
(一瞬で、重ねる――!)
カイエンの身体が、漆黒の残像へと変わる。
シュウゥゥゥッ!
一撃目。アゼルの魔剣の軌道を、真下から跳ね上げる、深淵の斬撃。 二撃目。アゼルの「鉄壁」の防御フィールドを、横一文字に切り裂き、強制解体する斬撃。 三撃目。無防備になったアゼルの胸元、かつて王と共に戦ったあの「最後の傷跡」へと、真っ直ぐに突き刺さる、必殺の突刺。
コンマ数秒にも満たない極限の時間の中で、カイエンは三つの異なる軌道の斬撃を、まるで「同時に存在させた」かのように一瞬にして重ね合わせ、叩き込んだ。
事象の遅延すら許さない、バグの体現者による極限の三連撃。
ドッ、ドォォォォン!!!
聖堂全体を揺るがす、凄まじい衝撃波。 アゼルが放った四騎士の魔力の螺旋が、カイエンの三連の斬撃によって完全に「解体」され、光と炎と氷の粒子となって虚空へと霧散していく。
そして。 カイエンの魔剣の切っ先が、アゼルの胸元を、深く、正確に貫いていた。
「……がはっ」
アゼルの口から、鮮血が溢れる。 背後の美しい「夜空の翼」が、ガラスが割れるように、光の破片となってパラパラと崩れ落ちていった。
アゼルはゆっくりと後退し、よろめきながらも、魔剣の切っ先を凍てつく石床へと突き刺した。 自らの巨躯を剣の柄でどうにか支え、アゼルは膝をつく。
「……ふっ」
アゼルは、静かに笑った。
「……強くなったな」
初めて、アゼルは精神感応ではなく、自らの声でそう言った。 その声はかすれていたが、聖堂の静寂の中に、確かに響き渡った。
カイエンは、禁忌の魔剣を構えたまま、一歩も動かなかった。 アゼルの命の灯火が消えかけているのは分かっていた。だが、王国最強の騎士に対する最大の敬意として、彼は最後まで警戒を解かず、ただ静かにアゼルを見据え続けた。
アゼルは、崩れゆく意識の淵で、自らの胸に突き刺さる冷たい感覚を覚えながら――数百年もの間、決して思い出すことのなかった、あの「滅びの日」の光景を脳裏に描いていた。
――それは、炎に包れる王城の玉座の間だった。
崩れ落ちる天井。悲鳴と怒号が遠くで響く中、玉座に深く腰掛けた、満身創痍の老王がいた。 その前で、影として跪く若き日のアゼル。
『お前は逃げろ』
王の声は、掠れていながらも、絶対の威厳に満ちていた。
『嫌です』
アゼルは、静かに、しかし決して退かぬ意志を宿した瞳で、王を見上げた。
『命令だ』
『初めて命令に背きます』
『なぜだ』
アゼルは、ほんの少しだけ悪戯っぽく、しかし心からの忠義を込めて笑った。
『王が一人で死ぬ姿など。……見たくありません』
その答えを聞いた王は、一瞬呆気にとられたように沈黙し、それから――本当に嬉しそうに、苦笑を漏らした。
『馬鹿者』
――回想が、静かに幕を閉じる。
現在の常闇の聖堂。 アゼルは、眼前に立つカイエンを見つめていた。
アゼルは、唇を微かに動かした。
(……ありがとう)
その、数百年分の感謝の言葉が、口から出そうになる。 だが。 アゼルは、その言葉を言わなかった。 今さら、自らを救ってくれた者にそんな安易な言葉をかけるのは、この死闘に対する、そして互いの正義に対する無礼だと、彼自身の誇りが許さなかったからだ。 アゼルは、その言葉を喉の奥へと静かに飲み込んだ。
カイエンもまた、アゼルの唇の動きと、彼の双眸に宿った微かな揺らぎを見て、彼が何を言おうとし、なぜそれを飲み込んだのかを、正確に察していた。 だから、カイエンも何も言わなかった。 ただ、二人の間に、言葉を超えた無言の理解だけが通じ合う。
二人は、静かに笑い合った。
カイエンは、黙ったまま、ゆっくりと魔剣の切っ先を下げた。
「あの時……」
アゼルは、消えゆく意識の中で、静かに語りかけた。
「初めて陛下は……王ではなく、一人の人間として笑ったのだ」
カイエンは黙って、アゼルの言葉を胸に刻む。
アゼルは、消えゆく身体の軽さを感じながら、もう一度、深く、穏やかに笑った。
「……良かった」
その呟きに、カイエンは問いかける。
「何が」
「もう……陛下は、独りではない」
カイエンは、言葉を返さなかった。 ただ、胸の奥に、かつて滅びた国を守り、今はその歴史を語り継ぐ者としての重い責任が、静かに、しかし確かに宿るのを感じていた。
「……」
アゼルは、ゆっくりと空を見上げた。崩れかけた天井の隙間から、ほんの少しだけ、常闇ではない、本物の星空が見えるような気がした。
「私の役目は……終わった」
アゼルの身体は、足元から徐々に光の粒子へと変わり、常闇の空気へと溶け始めている。 その消えゆく背中に、カイエンは静かに、最後の手向けとして問いかけた。
「後悔は?」
アゼルは、ほんの少しだけ、本当に悪戯っぽく笑った。
「一つだけ」
「?」
「もっと……皆で酒を飲みたかった」
その言葉を最後に、常闇の騎士アゼルの身体は、星々の粒子となって完全に霧散した。 聖堂に、本当の静寂が戻る。
残されたのは、床に深く突き刺さった、主を失った魔剣と。 静かに魔剣を収め、崩落を始める聖堂の天井を見上げる、カイエンの後ろ姿だけだった。
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