EP114 深淵と夜空
絶望が聖堂の空気を凍らせる中、カイエンはただ一人、地に足をつけ、静かに佇んでいた。
解析不能。突破口なし。仲間は全員戦闘不能。 かつてない圧倒的な「正義」の質量を前にして、しかしカイエンの心は、不思議なほどに凪いでいた。
アゼルの背負う正義の重さを知った。 王国が滅びたのは、誰も悪くなかったから。全員がそれぞれの正義を全うしようとした結果の、必然の破滅だった。 ならば、それを「バグ」として、単なる「整理対象」として解体することなどできはしない。
(……いや。解体するのではない)
カイエンは静かに自らの「魔眼」を、限界を超えて開放した。 世界を構成するノイズが、視界の端々でバグ・コードとなって激しく点滅する。カイエンの右目に、かつてない血の滲むような紅い輝きが宿った。
(俺の正義で、あんたの正義を、正面から超えるだけだ)
カイエンは深く、深く息を吸い込んだ。
その瞬間、彼の胸の奥から、そして両手に握られた禁忌の魔剣から、禍々しくも圧倒的な漆黒の魔力が噴出した。 それはシステムを書き換えるバグの濁流。世界を侵食し、喰らい尽くす、深淵の力。
「――おおおおおおッ!!」
声にならない咆哮。 溢れ出た漆黒の魔力は、カイエンの全身を包み込み、まるで彼の輪郭そのものを世界から塗りつぶしていくかのように、黒く、深く変貌させていく。 衣服も、肌も、髪すらも、光を一切反射しない「完全な闇」へと染まり、その背後に漂う影は不気味に揺らめく。
それは、カイエンが秘めていた真の力。 世界のシステムそのものを強制執行する、バグの体現者。
『深淵の断罪者』――。
聖堂の床が、カイエンから放たれる凄まじい魔力圧だけでミシミシと音を立てて陥没していく。その圧倒的な闇は、アゼルが放つ四騎士の輝きすらも侵食し、押し返さんとするほどだった。
対峙するアゼルは、その光景をただ静かに見つめていた。 彼の左右異なる双眸――黄金と深紅の瞳が、カイエンの変貌を捉え、その唇が、かつてないほどに穏やかで、慈悲深い笑みの形に歪んだ。
アゼルは、愛剣である魔剣を、ゆっくりと、しかし確かな敬意を込めて構え直した。
『素晴らしい。それでこそ、この常闇の底に辿り着いた者だ』
アゼルの優しい声が、カイエンの脳裏に、そして魂に直接響き渡る。
『さぁ……見せてください、あなたの「正義」を。この世界に、新しい価値観をもたらすのです』
その言葉が紡がれた瞬間、アゼルの全身を包んでいた重厚な漆黒の鎧に、無数の白い亀裂が走った。
パリィィィンッ!!!
ガラスが砕け散るような、美しくも鋭い音が響き、アゼルの鎧が音を立てて砕け散った。 しかし、そこから立ち上ったのは、世界を呪うような禍々しい黒い魔力ではなかった。
それは、無数の星々が瞬くような、静謐で、どこまでも透き通った「漆黒の粒子」。 砕け散った鎧の破片は粒子となり、アゼルの周囲を優しく舞い踊る。
そして、アゼルの背後に、ゆっくりと巨大な黒い翼が広がっていった。
それは、光を拒絶する闇の翼ではない。 まるで、無限に広がる宇宙そのものを切り取って貼り付けたかのような――星々の煌めきを湛えた、息を呑むほどに美しい「夜空の翼」だった。
アゼルの第二形態。 かつて王の影として、王国のすべての正義と滅びを背負い、この常闇を護り続けてきた守護者の、真の姿。
「……いくぞ、アゼル」
漆黒に染まったカイエンが、魔剣を構える。
『来なさい、カイエン。私たちの正義の、その先へ』
夜空の翼を羽ばたかせ、アゼルが静かに微笑む。
音のない聖堂。 すべてを塗りつぶす深淵の闇と、すべてを包み込む夜空の闇。 二つの異なる「正義」が、今、世界の命運を懸けて、静かに激突しようとしていた。
光すら届かない常闇の聖堂で、二つの異なる「闇」が対峙していた。
カイエンの全身から立ち上る、世界を侵食し、喰らい尽くさんとする禍々しいバグの奔流――『深淵の断罪者』。 対するアゼルが纏うのは、星々の煌めきを湛え、無限の宇宙を切り取ったかのような、息を呑むほどに美しい「夜空の翼」と、静謐に舞い踊る漆黒の粒子。
言葉はいらなかった。 二人の距離が、一瞬にしてゼロになる。
キィィィィン――ッ!!!
カイエンの放った禁忌の魔剣の一撃と、アゼルの魔剣が正面から激突した。 音のない世界。しかし、互いの魔力が衝突した境界から、空間そのものが耐えかねたように激しく歪み、黒い稲妻となって周囲に炸裂する。
(重い……! だが、押し負けはしない!)
カイエンは『深淵の断罪者』の力によって、自身の肉体的な限界を強制的に引き上げていた。 魔眼に映る世界は、赤と黒のバグ・コードで塗りつぶされている。アゼルの動きは、もはや「事象」として解析するまでもない。ただ、本能が、魔剣が、相手の刃を捉えていた。
アゼルが翼を羽ばたかせ、漆黒の粒子を散らしながら、流れるような連撃を繰り出す。 それは、先ほど見せた四騎士の技の、さらに先。
第一騎士の「鉄壁の守護」を攻撃の起点へと変換した、攻防一体の突き。 第二騎士の「黒赤の猛火」が、夜空の粒子と混ざり合い、熱量を持ちながらも静かに相手を焼き尽くす黒い炎の渦となってカイエンを襲う。
「おおおおッ!」
カイエンは退かない。 溢れ出る漆黒の魔力を刃に収束させ、アゼルの放つ炎の渦を正面から両断した。 切り裂かれた炎が夜空の粒子となって霧散する中、アゼルはさらに第三騎士の「氷」を宿した刃で、カイエンの死角を突く。 絶対零度の刃がカイエンの肩口をかすめ、彼の漆黒の衣を凍りつかせ、崩壊させていく。
だが、カイエンはその冷気すらも、自らの『深淵』の闇で喰らい尽くし、相殺した。 一歩も譲らぬ、極限の死闘。 剣と剣が交差し、互いの魔力が火花となって散り、聖堂の石柱が、壁が、天井が、二人の戦闘圧だけで次々と消滅していく。
その、凄まじい攻防の最中。 互いの魔剣が、鍔迫り合いの形でピタリと噛み合った。
至近距離で、二人の視線が交錯する。 カイエンの血のように紅い魔眼と、アゼルの左右異なる双眸――黄金と深紅の瞳。
その刹那、アゼルの唇が静かに動いた。 無音の世界に、彼の穏やかで、どこか遠い過去を懐かしむような声が、カイエンの脳裏へ直接、染み渡るように響いた。
『初めて命令に背いた日のことを思い出す』
アゼルは、ただそれだけを言った。
「……?」
カイエンの眉が、微かに動く。 命令に背いた日? 王の影として、王国の絶対的な忠臣として、すべての正義と滅びを背負い続けてきたこの男が、初めて命令に背いた日とは、一体いつのことなのか。 王に対してか。あるいは、国に対してか。
だが、アゼルはその疑問に答えることはしなかった。 彼の双眸に宿る慈悲深い光が、一瞬にして、極限の戦士としての鋭い輝きへと戻る。
アゼルが夜空の翼を大きく羽ばたかせ、凄まじい風圧とともにカイエンを押し戻した。
戦闘が、再開される。
アゼルは魔剣を上段に構え、その背後に第四騎士の「絶対の光」を、夜空の闇と完全に融合させた「極夜の輝き」として顕現させた。 それは、光でありながらすべてを闇に沈める、矛盾に満ちた絶対の魔力。
「……チッ!」
カイエンは頭をよぎった疑問を強引に振り払い、再び禁忌の魔剣を両手で強く握り締めた。 彼が背負う過去も、アゼルが背負う滅びの歴史も、すべてはこの一戦の先にしか繋がらない。
「はあああああッ!!」
漆黒の魔力を爆発させ、カイエンは再び、夜空の闇へと牙を剥いて突撃した。
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