EP112 常闇に溶ける光2
ヒナの身体が冷たい石床を転がり、壁際に衝突して、完全に動かなくなった。 その手からこぼれ落ちたドラゴンの角の短剣が、乾いた音を立てて静かに横たわる。
マキマが倒れ、アイフェリスが凍りつき、最後の希望であったヒナの神速の特攻すらも、アゼルの圧倒的な力の前に無残に砕け散った。
音のない世界。 静寂の聖堂のただ中で、立っているのはカイエンただ一人だった。
「はっ……、ふぅ……」
カイエンは禁忌の魔剣を杖代わりにし、膝の震えを抑えながらどうにか立ち上がった。 全身の筋肉が悲鳴を上げている。だが、肉体の痛みなど、今彼の胸を支配している「冷たい感情」に比べれば些細なものだった。
カイエンは、自身の「魔眼」を限界まで見開いた。 世界を事象のシステムコードとして解析し、バグ(歪み)を見つけ出し、そこを起点に「解体」する。それがカイエンの戦い方であり、これまで数々の絶望的な戦況を覆してきた絶対の切り札だった。
だが――見えない。
アゼルの全身を覆う魔力の流れをどれだけ凝視しても、そこには一筋の「歪み」すら存在しなかった。 第一騎士の鉄壁の盾。 第二騎士の黒赤の猛火。 第三騎士の絶対零度の氷。 第四騎士の絶対の光。
相反し、反発し合うはずの四つの強大な属性が、アゼルという一人の男の中で、完璧な黄金比をもって調和している。バグがないのではない。バグそのものが、極限の美しさでシステムとして完成してしまっているのだ。
(解析できない……。解体の糸口すら、見つからない……)
カイエンの背筋を、冷たい汗が伝う。 これまでにない感覚だった。 どれほど強力な「使徒」であっても、どれほど狂った帝国の兵器であっても、そこには必ずシステム上の脆弱性があった。だが、目の前に立つ大男には、それがない。
これが、五騎士最強。 常闇の騎士、アゼル。
カイエンの胸に、初めて本物の「絶望」が兆した。 勝てない。この男は、これまでの旅で出会ったどの存在よりも、遥かに遠く、高い場所にいる。
アゼルは、魔剣の切っ先をわずかに下げた。 相変わらず、その左右異なる双眸には、憎しみも侮蔑もなかった。ただ、すべてを受け入れたような、底のない静けさだけがある。
アゼルの唇が、静かに動いた。 無音の世界に、彼の優しい、しかし重みのある声が、カイエンの脳裏へ直接染み渡るように響いた。
『なぜ、私が同胞たちの技を使えるのか、不思議に思っているな』
アゼルは黒銀の長髪を微かに揺らし、自らの鎧に刻まれた傷跡をそっとなぞった。
『私は、王の影。誰よりも王の近くにありながら、誰よりも仲間たちを見つめていた。……私は、彼ら全員から技を学んだのだ。彼らの抱く理想を、その剣技のすべてを、この身に刻み込むために』
アゼルは一歩、また一歩と、カイエンに向かって歩みを進める。 彼が歩くたび、足元から伸びる影が、まるで倒れたヒナたちの身体を優しく包み込むように広がっていく。
『君たちは、彼らをバグと呼び、狂気に囚われた哀れな亡霊として解体してきたのだろう。だが、彼らは狂っていたわけではない。ただ、己の生を全うしようとしただけだ』
アゼルの黄金の右目と、深紅の左目が、かつての王国の幻影を映し出すかのように細められた。
『王は民を守ろうとした』
その言葉とともに、第四騎士アルディウスの、黄金の聖光がアゼルの背後に揺らめいた。
『民は生きようとした』
第二騎士の、優しくも激しい黒赤の炎が、アゼルの魔剣に宿る。
『騎士は王を守った』
第一騎士の、一歩も退かぬ鉄壁の意志が、アゼルの纏う漆黒の鎧に宿る。
『宰相は国を変えようとした』
第三騎士ヴァルドの、冷徹で揺るぎない氷の魔力が、聖堂の床を凍てつかせる。
アゼルは、カイエンの正面で足を止めた。 その巨躯から放たれる圧倒的な質量を前に、カイエンは息をすることすら忘れていた。
『全員が。……それぞれ、正義だった』
アゼルの言葉は、静かに、しかし決定的な真実として、カイエンの魂を揺さぶった。
『正義同士がぶつかった。……だから、王国は滅びたのだ』
「――っ」
カイエンは、言葉を失った。 これまで彼らがこの塔で戦ってきた守護者たち。 狂気に狂い、侵入者を排除しようとした彼らの行動は、決してバグなどという一言で片付けられるものではなかった。 誰も悪くなかった。 王も、民も、騎士も、宰相も。 それぞれが自らの守るべきもののために命を燃やし、その結果として、国というシステムは破綻し、滅び去った。 そのすべての哀しみと、執念と、正義を、このアゼルという男はたった一人で背負い、この常闇の底で守り続けてきたのだ。
今まで倒してきた四騎士たちの生き様が、アゼルのその一言によって、すべて包み込まれ、肯定されていく。
『誰も悪くない。……だからこそ、私はここに立ち続ける。彼らの正義を、この滅びの結末を、誰にも汚させはしない』
アゼルは、再び魔剣を両手で構えた。 絶対的な無音。 絶対的な絶望。
それでも、カイエンは震える手で、禁忌の魔剣を正眼に構え直した。 仲間たちは倒れ、勝機は見えない。 だが、この男の背負う「正義」の重さを知ったからこそ、カイエンの魔眼は、かつてないほどに鋭く、静かに燃え上がり始めていた。
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