EP102 氷の微笑と温もり
床に額を擦り付け、慟哭していたヴァルドは、やがてゆっくりと顔を上げた。 その水色の瞳からは涙が消え、代わりに、すべてを受け入れた者の静かな光が宿っていた。彼はふらつきながらも、砕け散った氷剣の柄を再び握り締め、立ち上がる。 その姿は、かつて王国を支えた誇り高き軍師そのものだった。己の過ちと王の真意を知った今、彼はこの戦いに、そして自らの永きにわたる懊悩に、決着をつけることを望んでいた。
アイフェリスは、静かに杖を構えた。彼女の瞳にも、迷いはなかった。 同じく主君に仕え、国を背負う「女王の懐刀」として、目の前の男が何を求めているのか、彼女には痛いほど理解できた。彼をこのまま絶望の中に縛り付けておくことは、かつての英雄に対する最大の侮辱である。 「……同じく女王の懐刀として、あなたに引導を渡します、ヴァルド」
アイフェリスの足元から、これまでにない巨大な翠色の魔法陣が幾重にも展開し、遺跡の天井を衝くほどの魔力が吹き荒れた。彼女の全魔力を注ぎ込んだ、極大の破壊魔法。 「エクスプロージョン!!」
解き放たれた特大の魔力光が、猛烈な爆炎と衝撃波を伴ってヴァルドへと殺到する。ヴァルドは避けることも、防ぐこともしなかった。ただ、自らの最期を優しく受け入れるかのように、両腕をわずかに広げ、その眩い光に身を晒した。
轟音と共に、遺跡全体が激しく揺れ動く。 しかし、巻き起こった爆風が収まるにつれ、不思議な静寂が広間を支配していった。
吹き荒れていた猛吹雪が、嘘のようにピタリと止む。 遺跡の壁や床を覆っていた分厚い氷が、パキパキと音を立てて一斉に砕け散り、光の粒子となって霧散していく。
爆炎の消え去った中心に、ヴァルドはまだ立っていた。 その全身の鎧は砕け、いまや光の塵となって消えかけている。
カイエンは、その光景をじっと見つめていた。そして、驚きに目を見張る。 カイエンが初めて見る、ヴァルドの表情。 感情を捨て、氷の彫像のようだった男の口元が、ほんの少しだけ、和らぐように吊り上がっていた。
ヴァルドは、笑っていた。ほんの少しだけ、穏やかに。
「……久しぶりだ。」 掠れた、しかしどこか晴れやかな声が響く。 「笑ったのは。」
アイフェリスは杖を握りしめたまま、彼を見つめていた。その胸中を去来する思いを、絞り出すように呟く。 「……宰相が裏切った。」 だから、国は滅び、あなたはすべてを失ったのだと、そう言いたげに。
しかし、ヴァルドは静かに首を振った。 「……違う。」 その瞳は、もうアイフェリスを敵としては見ていなかった。 「私はずっと、宰相一人を憎めば楽になれると思っていた。」 自嘲気味に、しかし確かな悟りを得たように、彼は言葉を続ける。 「だが、王国を滅ぼしたのは一人ではない。」
見て見ぬ振りをした者、欲に溺れた者、そして、王の深い愛と覚悟に気づけず、ただ己の無力さを呪い続けた自分自身。すべてが、あの滅亡の歯車の一部だったのだ。 だが、その真実に至った彼の表情には、もはや後悔の色はなかった。
「感謝する、エルフの懐刀よ……。陛下のもとへ、ようやく往ける……」
ヴァルドの体が、足元から静かに氷となって砕け始めた。 しかし、それは冷酷な破壊ではなく、どこか幻想的な光景だった。砕けた体は粉々にはならず、無数の氷の結晶となって宙に舞い上がる。 結晶は、淡く青い光を放つ美しい雪となり、静かに、優しく広間へと舞い落ちていった。それはまるで、長きにわたる王国の冬が終わり、春の訪れを告げる名残雪のようだった。
やがて光の雪が完全に消え去り、静寂が戻った床の上。 ぽつんと、一つの金属片だけが残されていた。
王家の紋章が刻まれた、王国軍師の徽章。
カイエンはゆっくりと歩み寄り、膝をついてそれを拾い上げた。 かつて絶対零度の冷気を放ち、すべてを凍らせていた男の遺品。 しかし、カイエンの手のひらに収まったその冷たかった金属は、不思議と、少しだけ温もりを帯びていた。
「……終わったな」 カイエンは徽章を握り締め、王家の紋章を静かに胸へ当てた。
「あなたの国は滅びた。」
「でも、あなたの忠義は忘れない。」、ヴァルドが消え去った虚空を見つめながら、静かに呟いた。
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