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63. 追われる足跡

63. Followed Footsteps


僕は雲間から漏れる光柱に目を細め、狼の姿を見失った庭先で立ち尽くしていた。

僕は、ずっと、血と錆の臭いに塗れていた筈なんだ。少しもそうとは感じられなかったのは何故だろう。

放出し切ったような脱力感の中、驟雨の後の冷気の中でも香るのは、ラベンダーの蕾、だろうか。植え付けの時期は、もうそこまで来ているのかも知れない。


途方に暮れるとはこのことだ。


しかし、Fenrir様は、僕の前に、こうして姿を見せてくれたんだ。僕のことを、見捨ててはいないと捉えるのは、そんなに楽観的な行為ではないと思って良いのだろうか。


少なくとも、その場で激昂し、罰の類を与えるような慈悲は下さらなかった。

詰まる所、これは、想定内のことの運びだ、ということ。

都合の良い解釈ではあったが、そう思い込まなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうだったのだ。


「Sebaから、目を離すな、か…」


であれば、僕は、僕は今の権力にしがみ付いたまま、貴方に与えられた使命を熟すのみだ。


「貴方はお忙しい。代わりに僕が、というわけですね。」


闘技場を最後に、袂を分ってから、一番すぐ近くまで来ていることになる。


彼がもし、僕に対峙したなら、開口一番に、なんと叫ぶだろうか。


この、裏切り者が。


もっと、丁寧な言い回しがあるのかも知れない。

Fenrir様から、僕について知らされていたとは思えないが。

それでも僕が、彼の威を借りていることを知って、気分が良い訳がない。


しかし、彼の身代わりとなって、奴隷の身分から救い出したのは、この僕だ。

感謝の一言でも、述べてもらわなくては。寧ろ割に合わない。


それでも、二人の邂逅が、何の感動も伴わないどころか、互いの憎悪を引き立てるのは、想像に難くない。

所詮僕らは、神によって引き合わされただけの駒。同志ではあっても良いかも知れないが、ご友人と呼べるかは甚だ怪しい。

Fenrir様が、居合わせているのでなければ、二言、三言の挨拶で沈黙する。


詰まる所、彼から目を離すな、とは、一方的な監視。

尾行しろ、という意味だ。


Sebaは確か、牢屋からアーデリンさんを連れ、地上へ見送ると言っていた。

行き先は、教会であるのに違いない。


それで、その後は?

屋敷に戻って、それで…


続きを楽しむ、のか?


嫌な思考の流れに、首の裏がぞくりとした。


僕が目の当たりにしたヴァイキングへの拷問が、何の為に行われたものだったのかは、知る由もない。

その全てに、儀礼的には必要なくとも、彼が立ち合うことを常に望むのだとしたら、彼は唐突な場面の切り替わりに不満を覚えるだろうか。


僕を導き入れた、あの庭師の老人はどこだろうか。

ベンチには、ずぶ濡れのローブだけが置かれていた。しかし、その膨らみは、いくら老耄れても一人の人間を包んでいるとは到底思えない。


地獄への入り口は、埋められぬまま残っている。

僕は彼処からFenrir様を追って、どうにか地上へ抜け出せた。気が動転した僕は、完全に、来た道を見失っていたが、狼の影に覆われ、より暗闇の澱みを増した通路だけを選んで突き進むことで、貴方の後ろ姿を拝むことが叶った。


今、もう一度、あの地下世界に足を踏み入れる勇気は無い。

それだけ光刺す世界とは、たとえどれだけ腐っていようとも、それだけで魅力的だったのだ。


「……。」


しかし、かと言って、僕がマルボロ邸にずかずかと入り込める道理は、これっぽっちも無い。

本物が此処で暮らしている以上、すっかり気に入ってしまったこの衣装も、何の意味もなさない。

何なら、庭先で立ち尽くしているだけでも、いつ屋敷の人間に見つかるかわからないのだ。


「と、とにかく、一度領地を出よう…」

立ち尽くしていたせいで、マントの裾が、ずっしりと重たい。根を生やしてしまう前に立ち去らなくては。


「そうなれば、やはり一度、教会へ赴くのが良いかな。」


知っている場所に赴いて、アーデリンと、Sirikiとして話ができるだけでも、ありがたい。

先はまともに会話する暇も無かった。

彼女が伝えようとしていたこと、きちんと理解しておきたい。

ある種、僕に助けを求めているようにも見えたんだ。実際、今は僕の方が救われたい側ではあるのだけれど。


教会は、初めて訪れた時と同じように、騎士たちによって護衛が為されていた。

Fenrir様は、あれがヴァイキングの息がかかったことで、マルボロ家お抱えの戦力が、そのまま彼らのボディーガードとして靡いたのだと説明してくれたが、今はどうなのだろうか。

ヴァイキングのうちの何人かの隠れ家として、機能している可能性はもうゼロだと思った。

僕が地下牢で見たのは、確かにヴァイキングだった。何処から拉致して来たのかなどと考えていたが、思えばこんなに近くに供給先がいたのだ。


屋根の瓦から突き出た、ヴァイキングの神話に登場するであろう幻獣の木彫り。

今日は、一羽のカラスが、鬣に鎮座して地上を睨んでいる。


「そこの貴族殿。」


「っ…!!」


顔面が引き攣り、逃げ腰になる。

騎士の目線を全く想像していなかった僕は、兜の中から響いた威圧的な声に、飛び上がってしまったのだ。

まずい、これでは初めて来訪した時と同じ歓待を受けることになる。

次の瞬間、鞘から剣を抜き、襲いかかってくる彼らを想像して、僕は思わず後退った。


「貴殿もミサへの出席をご所望の者か?入口はこちらだ。」


「え?あ、あ…」


僕は、自分がどのように見られるかに少しも気が回らなかった。


「ど、どうもありがとう。し、しかし、間に合わなかった。今からでは、もう遅いだろうか…」


「そうかも知れないな。俺にはいつ終わるのかは分からないが。入りたいのか、どっちなんだ?仕事なんで、通すだけだが。」


「え…えっと…」


ギィィィィ…


その時だった。正面扉がゆっくりと内側に向けて開かれる音がした。


「っと残念、一足遅かったようだ。それでは…!」


「お、おい…!」


僕はつんのめりそうになりながら、通りに向かって駆け出し、近くにあった荷車の陰へ身を潜り込ませる。


「はぁっ…はぁっ…はぁっ…!?」


衣装が汚れるのも構わず、壁際へ体を押し付ける。


何というタイミングだ。

ミサを終えて出てくる人たちの中に、確かにいた。

アーデリンとの会話に夢中のようで、僕の方へ視線は向いていなかったが、見つかってしまっただろうか?


送り届けて、結構な時間を此処で過ごしていたらしい。

…でも、何故?彼女から、説教の類があったのか?


入り浸っていても、おかしくは無い。僕だったら、あんな空間で息を吸っていただけでも、免罪の類を求めたくなる。尤も、彼のことだから、顔色ひとつ変えずに貴族としてあるべき姿を謳歌するのだろうけれど。


わからないが、尻尾は掴めた。


後は、彼が何もせずに屋敷へ戻っていくのを、見届けるだけだ。

もしそれで終わるなら、そこから先は不可侵領域。僕からこれ以上できることは何も無い。大人しく馬車に乗り込み、その後のことはフットマンに任せよう。

多分、王城で、貴族ごっこの続きが待っている筈だから。


だけど、もしSebaが、屋敷の外へ、別の私用を済ませるつもりでしるなら、まだ僕にも少し仕事が残っているということになる。


いや、恐らくFenrir様はそうと確信しているからこそ、彼から目を離すなと僕に警告なさったのだ。


そして実際、彼は門を潜ることはしなかった。

一度、馬車を眺めて、近づく素振りを見せたが…


彼の肩が、ゆっくりとこちらへ向いた。


「…!?」


マントを翻し、活気を取り戻しつつある街道へ、

そして、こちらの方へ、颯爽と向かって来たのだ。


見つかった。


そう思った。


ガラガラガラガラ…


最悪のタイミングで、隠れていた荷車が、動き始める。


外套で顔を覆っても、もう遅い。


「あ、あ…」


終わった。

そう思った瞬間、


「領主様っ!!ああ、お元気ですか。今日も麗しい!」


別の声が響いた。

荷車が過ぎ去って顕になった露店の商人だった。


Sebaはその店主と思しき男に呼び止められ、そちらに向かって会釈する。

そして、すぐにまた、屋敷とは反対側、繁華街へと闊歩を続けたのだ。


「な、ぜだ…?」


危険では、無いのか?真っ先に浮かんだのは、その違和感。


元より、領主が一人でふらふらと出歩くようなこと自体が、通常は考えられない行為だろう。人のことを言えた義理では無いが、少なくともお忍びだとか、身分を隠して下々の暮らしに目を向けるのが常では無いだろうか。


それが、あんなに堂々と。あれが街中を歩いていたら、まず平民では無いと一目でわかる。

それが市井の人間によってであれば、ひとまずは何の問題も起きまい。


問題は、彼がヴァイキングらによって、言ってみれば指名手配されているような存在であるということだ。


「怖く無いのか…?」


一度は彼らによって奴隷に作り変えられ、極限まで人間性を奪われた身であるはずだ。

彼らの報復を恐れないのは、余りにも馬鹿げている。

残党が、きっとそこら中に…


しかし、様子がおかしいのは、寧ろ彼を取り巻く群衆であったと気付かされる。


Sebaの姿を見つけるや否や、通りを行き交っていた人々が、自然と道を開いたのだ。


「領主様だ…!!」


誰かが小さく呟いた。


それだけで十分だった。

パン籠を抱えた女は一歩退き、

荷車を押していた老人は帽子を胸に当てる。


子供までもが、理由も分からぬまま、親の背に隠れながら彼を見上げていた。


Sebaは、何も言わない。


ただ歩くだけだ。


それなのに、

まるで見えない行列がそこにあるかのように、

人の流れが静かに割れていく。


「……なんだ、これ…」


僕の背筋を、冷たいものが走った。


あれは、威圧でも、恐怖でもない。



「…そうか。」


相手の威を借りているのは、お互い様、ということだったのだ。


覚えている、あのスターヴ教会の2階廊下から見下ろす、ヴァイキングの人影を。

Sebaは、態々自らの姿を、彼らに見せつけているのだ。

いつでも、相手になってやろう、と。


Sebaもまた、神の威光を身に纏い、ヴァイキングを屠る力を操れる存在を、演じているのだ。


もしかしたら、それはFenrir様からの指示、或いは彼なりの意思を汲み取った結果なのかも知れない。

それが、行きすぎた結果を招かなければ良いが…


ともかく、意識的に彼が、多くの人の目に留まろうとしているのは確かだ。

元来、そのような、民衆に寄り添った性格をしていたことも考えられたが、裏の顔を知ってしまった今となっては、そんな可能性を疑う気にもなれない。


本当なら、日がな一日、日の刺さぬ玉座で、耽っていたいはずなんだ。そうだろう?


そして、これがただの、群衆に愛を撒く散歩で無いのだとしたら、向かう先は見届けておかなくてはなるまい。


「……。」


でも、やはりこの衣装じゃ駄目だ。

人目につくこと、それが今、一番やりたくないことなのに。


運が良ければ、顔も名前もわからない何処ぞの貴族で済むだろうが、偽物の噂が浮上すれば厄介だ。

誰に見られているか、わからないんだ。Sebaに僕の存在が知れるようなことはできれば避けたいのに…


アーデリンは、行き先を知っているかな?でも後を付けていることを彼女に知られたくない。

彼女がSebaに心を開いているとは到底思えないけれど、それでも用心に越したことはない。

そもそも、白昼堂々とは、いくら裏道を経由しても、人目につかないことは無理だ。



ああ、フットマンがいてくれたら…


何故、彼は僕の味方をしてくれるのだろう。

彼は、本物のSebaに、此処で仕えていたのでは無いのだろうか。


わからないが、彼は此処にいる気がした。

もし、彼に再び合流することができれば、力を貸してくれるかも知れない。


いや、きっと彼方から、探してくれているに違いなかった。

何故なら、僕は夜中にこっそりと、王城から抜け出して、地上での、いや、地下での日課を享受しに戻ってきた、ということになっているからだ。


今頃、女中らが寝坊すけな領主を起こしに寝室に訪れ、異変に気がつき始めているだろう。エマにまで伝われば、王朝は大騒ぎだ。

大目玉を喰らうどころでは済まされないのは、目に見えているが、その辺りもフットマンがどうにか取り持ってくれると信じたい。



こうなれば…一か八かだ。


僕は、恐らく一睡もしていなかったであろう馭者に向かって、なるべく厳しい口調で叫ぶ。


「Whip…!!」


自身は無かった。僕が叫ぶ立場で無いことだけは確かだ。


しかし声を張り上げると、馭者台にいた男がゆっくりと振り返った。


「……。」


年は四十ほどだろうか。雨に濡れた帽子の縁から、灰色の髪が束になって垂れている。革の外套は擦り切れ、肩の縫い目は何度も繕われていた。

だが手綱を握る手だけは、驚くほど落ち着いている。長年、馬と街道を相手にしてきた手だ。


僕の顔を一瞥見たあと、男は視線を伏せた。

本当に僕を領主だと思ってくれたのか、その上で面倒ごとを避けたくて聞こえないふりをしているのか。判断はつかない。


「い、いつもの場所だ…立ち寄ってから、王城へ戻るようにしろ。」


「まだ、帰りたく無いんだ。フットマンの命令より、私を優先しろ。」



「…聞こえなかったのか!?」



僕は慌てて、威圧を加える。声が裏返って直後にやらなければ良かったと思った。


「い、行ってくれるな?」


念を押すように呟くと、彼がそれ以上何らかの反応を示す前に、マントを翻す。


僕は、誰も自分の乗車に目を向けていないことを確かめると、覆いがぴたりと合わされた馬車の中に再び乗り込んだ。


「た、頼むぞ…」


仮に失敗しても、王城送りになるだけと考えれば、命を脅かされたりしない点で、そんなに気を揉むことも無いかもしれないが、それでもFenrir様の命令を遂行できないことは、今の僕にとっては死活問題なんだ。


次の瞬間、外で短く鞭が鳴った。


馬が鼻を鳴らし、金具の触れ合う乾いた音が鳴る。

それが、どれだけ僕の内心を掻き乱したかは、言うまでも無い。


Ochophobia(乗り物恐怖症)にでもなってしまいそうだ。


ぐっと、馬車が前へ引かれた。車体が軋む。


ガラガラガララ…


遅れて車輪が回り始め、

石畳を踏む振動が足元から伝わってくる。


窓は閉じられ、外の景色は見えない。

それでも、街が動き始めたことだけは、体の奥で分かった。


僕はひりひりする目を閉じた。

大丈夫だ、地下とは違う。ここには、まだ昼の匂いが残っている。

窓の隙間から漏れる日の光があるだけで、行き先が分からずとも、安心感がまるで違うはずなんだ。

此処で吐くようでは、きっとFenrir様の隣には座れない。


目的地が同じなら、先に辿り着くだろう。望まぬ邂逅だけは、避けられる筈だ。





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