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62.秘教の融解

62. Mystic Melting


「お待ちください…!Fenrir…Fenrir様っ…!!」


あんなに見窄らしかったお前に、似つかわしいとはお世辞にも言えない、煌びやかな衣装。

成金でも、もう少し偉そうにするだろうよ。

そのくせ、どこで覚えて来たのか、足回りのもたつく長衣の扱いを心得、マントを片手に絡めて捲し上げ、俺の影の元へと懸命に駆けてきたのだ。


「成る程…」


「そういうことだったか。」


安堵したのは、言うまでも無い。

此方から探す手間が省けたのは、大変喜ばしいことだ。俺が目を離した隙に、何処かで野垂れ死ぬようは奴では無いとは思っていた。


しかし、此奴の失態を大目に見てやる寛大さを示すのには、到底値しない。


今まで、何処をほっつき歩き、その衣装を身に纏うに相応しい地位にまんまと転がり込んだのか。

ある程度の想像はつくが、それ以上にお前には、あの哀れなヴァイキングの頭領と同じぐらいの責苦を伴ってでも、問い詰めなくてはならないことがある…


にも、拘らず。

怒りの言葉を選ぶ気力が湧いてこなかった。


より正確には、お前が、俺の中に何らかの異変を感じ取るようなことがあってはならないと思わされるほど、危うかったのだ。


お前自身もそうだろう、あの薄暗い落園で、俺と同じものを、目の当たりにしたはずだ。

であれば、万が一、不意に涙の一粒でも、溢れようものなら。



「……。」


惨めな野良犬として、見落とされた方が、まだ良かった。

ずぶ濡れの足元に視線を落とし、毛皮を震わせる気力も湧かない。


鎖の軋むような音が、地中から響いて来たような気がして、もう俺は抜け出せそうにない。



「また来る…」


「それまでに、俺が動きやすくなるよう、計らっておけ。」


「それから、Sebaだ…あいつから、目を離すな。」


特段何の計画も無かった。

ただ思わせぶりに、二言三言、命令のようなものだけを告げると、俺はこいつの戸惑った表情さえもう見たくなくて、雲間の光が増して、天から覗き込まれてしまう前に、屋敷を後にした。


「……。」


足取りが。飢餓に侵されたように、覚束無い。

どちらか一つだけなら、まだ、噛み砕いて、どうにか自分の中に落とし所を見つけることも出来たかも知れない。


運命に吸い寄せられたとはいえ。

この国を、俺の踏み台、アズガルド帰還の舞台に据えたのは、間違いだった。



昨夜あったことは、受け入れなくてはならないことだ。

俺が神様に対して、どのように関わり合うことを選ぶのか、その重要な指針であるのだから。

人間が人間をどのように、人間でないものとして扱うか、か。興味深い訳では決して無かったが、種を植え付けられた。

あの拘束の手順も、酷く神経を逆撫でられた。だが、これを解く術を見出すことは、俺の目下の課題にも繋がってくると思い出させてくれた。

俺が、理解し、行く行くは、俺が信じた拷問吏を見定め、見物する側に回る。その為の駒も、無事に舞い戻ってきてくれた。


…しかし、もう一つ。それは立て続けに起きて良いことでは無かった。


何故、この世界でも。

俺は、またしても人畜とされた狼の群れに、出会わなくてはならない。


皆、嬉しそうに、幸せそうに、あの狼頭のことをリーダーとして、慕っていた。


「有り得ないことだ。」


すぐに、解放の必要を衝動的に感じた俺は、決して責められるべきではあるまい。


俺が、あの群れを導くようなおせっかいが、許される筈も無いと思う一方で。

あれらが、雪原の世界を知らずに生涯を終えて良いはずがない。

此処に、我らを隔てる大河は、無いはずだと。







帰路を辿る道中、雨に削り取られた雪原は、歩いていて甚だ不愉快だった。

衰弱し切った神経に、春の訪れはことさらに気が滅入る。

この土地の夏が、あの忌々しい孤島よりも酷く無いことを、切に願うばかりだった。


“ウッフ、ウッフ…!戻ったぞ…”


“Luka…いるか…?”


それぞれが振り撒く臭いが舞いやすいのも、今は向かい風だ。

お前の匂いの漂いに目を細めた刹那、俺は、何も言い訳の類を考えていなかったことを後悔する。


“ぐるる…きゅぅぅー…?”


真っ先に向かったのが、彼女の元であったというのも、笑い(ぐさ)だ。

初めにVojaに、混入し得る匂いについて、事前に了承を入れておくべきだった。それでも、思慮に欠けていると言わざるを得ないが。

少なくとも、群れを掻き乱す行為は慎まなくてはならない。


“パパだーっ!!”


こうなることは、わかっていた。

一目散に洞穴から飛び出してきたのは、俺が散々に苦しめられて来た、故も知らぬ仔狼たち。

どろどろに溶けた入口の坂を、図体にしてはしっかりとした肉球で懸命に描きながら、我れ先に這い出ようとする。


一夜明けただけでも、なんだか大きくなったような気がしてしまうな。

実際のところ、その成長速度は凄まじい。怪物でなくとも、彼らはすくすくと伸びやかに育つ。


“Fenrirさんっ!今度はどんなお土産を持ってきてくださったんです?”


しかし、この臭いが、他の何かに上書きされるまで、人間の世界を彷徨い暇を潰す気力も、もう無かった。

少なくとも、Sirikiの前で、今までと同じような立ち振る舞いが出来る気がしなかったし、それを悟られるのが恐ろしかった。


“ああ…元気にしてたか。Lu…”


“ママがねっ!パパが戻ってきたら冒険に連れてってくれるって!”


…?

Lukaは、困ったように目配せをして、元気いっぱいな彼らを押さえ込むのに、それしか吐ける嘘が無かったのだと弁明する。


“母親を困らせるような悪い狼に、してやれることは無いのだぞ。”


“ちゃんと言うこと聞いてたもーん!ねえ、ママ?”


“そうか…良い仔だな。”


誠実さが微塵も感じられない、出まかせの対応が口を突いて出る。

鼻先に触れさせろとうるさいので、仕方なく首を降ろしたが、直後に強烈な吐き気と、唇のぴりぴりする感覚を覚え、慌てて顔を上げた。


“ふぅー…”


神々からの目を欺き、身を窶す為の、仮初の家族でしか無かったはずなのに。

どうして、こんな目に。


“お疲れみたいですね?あんまり、無理しないでくださいよ?”


“いつでも、此処で、貴方を待っていますから。”



ミッドガルドで、気を緩められる場所が、もうこの縄張りにしか無かった。



“あと…私も、ちゃんと良い仔にしてましたよ…?”


“……。”


春は嫌いだ。毛皮に籠った熱気が、時折思い出したように火照る。

ぎゅぅっと目を瞑ると、瞼がひりひりした。


直後に、暖かなお前の額がすり寄せられていることに気づいて、俺は嫌だとは言っていないことをせめて伝えようと、唸り声をあげずに顔を背けて仰け反る。


“尻尾がくたくたよ?Fenrirさん…洞穴は今、誰も使っていませんから、夕方まで眠った方が良いわ?”


“そうだな、少し休んで…しかし、そんなに長く眠っている暇は無さそうだ…”


今すぐに、遊んでもらえると期待した10もの狼の瞳が、獲物を一心に見つめている。


“俺たち二匹だけでは、持て余すな。何故、Vojaはこの仔らの世話を手伝おうとしない?”


“うーん…私がお願いしたことがないだけかも知れませんが、Fenrirさんのことを尊重してくれてのことだと思っていますよ。”


“もちろん、貴方が頼めば、喜んで協力してくれると思います!”


“そうできたら、とっくにそうしているんだがな。”



“いや、大丈夫だ、何でも無い。もしもう一匹でも多かったら、本当に助けを求めていたかもしれないが…”


弱音を吐きたかっただけだ、気にしなくいでくれ。





日向で眠ると、春の陽気で気がおかしくなりそうだった。有り難く洞穴の暗闇を使わせてもらおうことにした俺は、仔狼らの痛い視線を尾に受けながら、入口へとふらつく。


ざざっ


…っと、存外に滑るな。

前足だけが先行して、腹を打った俺は、急いで後ろ足を掻き、彼らの玩具となる前に、潜り込んだ。


直後に、もう一匹の鼻先が、転がり込んでくる。


“…なんでお前まで。”


“お邪魔するつもりは無いんです。ちょっと枝草のベッドを整えに来ただけ。”


“いい、自分でやるから…”


“ねえ、Fenrirさん。この臭い、Fenrirさんのお友達ですか…?”


そうら、来た。


“聞いて良かったのか、わからないって顔しているな。”


聞かずには、いられまい。人間の匂いですら、その青い瞳で爛々と興味を示すのに。

同じ狼の匂いで、しかも群れの中では嗅いだことのない臭いを、これでもかと纏っているのだ。

逆に、群れのど真ん中ではなく、真っ先にお前の元へ向かったのは余計なトラブルを避ける意味で正解だったかも知れない。


“ちょっと、心配しただけです。Fenrirさんが、違う群れの元へ、行ってしまったりしないかって…”


“ああ…”


そうか、その嫉妬の発想は、俺には欠けていた。

確かに足繁く通っている先に、別の狼の群れがいたと知れば、そう考えるのも自然だ。


“だが、戻って来たのだ。それで良いだろう?”


“Fenrirさん。浮気って言葉、知ってます?”


“なっ…断じて、違うっ…!”


何の前触れも無く投下され、俺はその場に立ちあがろうとして天井に眉間を直撃する。


“あらまっ…”


こんな慌てぶり、図星だと言っているようなものじゃないか。

証拠になるような、或いは弁明が直ちに必要だ。


“‘ほっ、本当だ。Luka…どうだっ…そんなに言うなら…”




“あ、あ…会ってみたい、か…?”


“……?”


咄嗟に動いた口元は、ぼろぼろだった。

自分でも、何を口走っているのだろうと思った。

だが、隠し通す為の尤もらしい嘘もまた、彼女の前では役に立たないと知っていた。


彼女が赴くのをきちんと躊躇ってくれる場所で、その狼らは縄張りを構えていると説明するのは、誤解を招かず良いことだ。そうでなければ、彼女が¬Vojaかそれ以上に悲惨な道を辿るのは目に見えていた。


実際、その場所で、まさに彼らは、人畜として営みを続けているのだから。

嘘は吐いていない。


しかし、会いたいと思うか、などと誘っては、何の意味もないだろうが。


何を考えているんだ、俺は。

彼女の前では、良い格好をしたいなんて、思っているんじゃないか。

それとも…


“もちろん、できるなら!きっと皆も、喜ぶわ!”


…!?


“…お、俺は、そうは思わないが?”


“少しでも、多くの狼に会いたい。散り散りになった群れ仲間たちのことを、心の片隅では、皆想っているんです。”


“嘗ての賑わいが、少しずつでも、戻ってきていけばって…”


“それは、お前個人の願いを、拡大しているに過ぎないのではないか?”


“だったら私は、こんなに幸せに、今の群れに迎えられていません。”


“Fenrirさんだって、色々あっても、結局はこうして、群れの新しいリーダーとして、皆が認めている。違いますか?”


“リーダーは、Vojaだ。俺は……”


“はいはい、『右腕』、ですね。親友の。”


“……。”


“…そうだ。”


やはり、この群れは異常だ。外部の狼の臭いに対して、縄張りの意識が、まるで薄い。

一歩間違えれば、人間に対してさえ、同様の危うさを孕んでいる。


そんなに甘くは無いだろう。そう心の奥底では冷笑せずにはいられなかったが。


“ひ、引き合わせる時が来るとすれば、多分お前が最初になるだろう。お前は…優しいから、きっとうまくいく。”


“ええ、楽しみにしていますね!”


一匹で勝手に付いてくるような無茶な真似を事前に防げる。そう考え直すことにした。


彼女の人間への興味が尽きぬのなら、まだ人間それ自体ではなく、人間に触れた狼に合わせる方が、害も少ないだろうか。


実際のところ、Sirikiの話題が持ち上がることなく、新たな群れの外の情報が齎されたこと自体は、僥倖なのだ。

失態を、更なる失態で覆い隠す、ということにならなければ良いが…




だがもし俺が、この群れを大事な拠り所とするのなら、個として果たすべき忠とは、安全弁(Keeper)であるかも知れない。



それなら、しかし、準備は入念に、必要以上にしておくべきだ。

幾つか、あの狼頭には、尋ねなくてはならないことがある。


…そして、お前もだ。Luka.


俺は巣穴からご機嫌に光刺す入り口へと這い出ていく姿を眺めながら、前足をそっと舐める。


もし、あの狼頭の言うことが本当ならば、

あいつの失踪に乗じて、群れの仔狼を盗み出した可能性がある。


Lukaに、その責任を問わせたくは無い。

元々、彼女の実子ですらないし、母親の役割を気丈に努めてきた善意を無碍にはしたくないから。




しかし、もし此処に、大きな綻びを見出すことになるのだとしたら、


俺はいよいよ心を狼にして、この地に降り立った神様の本性を暴き出す術を見出すことに、心血を注がなくてはならなくなる。




仔狼らの、抗議の声が聞こえる。


眠って良いか、不安になった。

目を覚ました次の瞬間、彼らが皆、忽然と姿を消してしまっていたら、どうしよう。

そんな、脈絡がないとも言えなくなってしまった妄想が、頭を擡げるのだ。


それで狼狽えるのは、何故だ。群れの宝が失われてしまうからか。

それとも、俺の中で、縛られて動かなくなってしまった記憶が、警笛を鳴らすのか。


“我が、狼よ……”


今は、どうか、(しずま)りたまえよ。

きっと、護ってくれる。

目醒むれば、一筋縄では行かない複数戦に、身を投じなくてはなるまい。






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