60. 逆刺の瀉血器 4
60. Barbed Bloodletter 4
あの布袋に、何が入っているか、尋ねるようなことはしたくなかった。
一つだけ、僕を落ち着かせる要素があるとすれば、中身が何か、完全にわからない、匿名化されてしまっていることだった。もし仮に犠牲者が顔見知りであったとしても、それを僕が知る由もなく、心が痛むことがない。
何処の誰かもわからないが、このような目に遭わされて当然のことをしたのだ、という確信だけが僕を支えている。
実際、ヴァイキングの輩が、僕と狼たちとの死闘に興奮していたのは、そういった背景の欠如があってこそだと思えた。Sebaを苦難に立ち向かう主人公に仕立て上げるようなお膳立てはあっても、それは彼らの私的な領域とは切り離された悲劇だ。
別の言い方をすれば、自分たちを人間とするなら、目の前で戦わされているのは、少なくともリアルな人間ではない。想像上のお話。
この玉座、どのように寛いで良いか、検討がつかない。
両方の肘掛けに、こうやって手を置いて、堂々としていれば良いだろうか。
肘より下が、段々と冷たくなってくる。
できることなら、ふんだんに布地をあしらったマントを体に巻き付けるようにして、座っていたい。
心理的にも、これから恐怖させられることが明白なのだから、身を包んで護りたい防衛本能もあった。
Sebaの体温が、背中と尻に、仄かに残っている。
アーデリンのかも、とも思ったが、彼女が座らされていた時間は、短いように思われた。
何故なら、彼女はヴァイキングと会話することを強いられていたから。
そしてそれは、僕が今、じっくり閲覧できるように計らわれている牢屋であった出来事。
あの檻の中には、ヴァイキングがいた。
きっと、たった今、狼頭の拷問吏が蹴って転がしたあれが、そうだ。
あれから、声が発せられていたというのが、信じられない。
そう吐き捨ててしまえるほど、その物体からは、人間らしい反応を感じ取ることが出来なかった。
頭がどちらかさえ、わからない。耳を澄ませて、ようやく虫のような吐息を感じ取ることができるのだろう。
「……。」
もしかして、もう、死んでいる?
その発想は、腹のあたりに冷えたものを感じた。
代わりが必要、というのは、つまりそういうことだったのだ。
この布袋の中身は、もう僕を楽しませるだけの魅力を備えていない。
そして、引き摺られてきた奴も、今からそうなる。
動かない、ただの、黒い革の塊に。
狼頭は、それを牢屋の中央に寝かせると、その上に跨り、何やら僕に見せるためでない作業に没頭している。
マントが覆い被さり、蠢く姿は背後から見ると、異種族の存在が、交わりながら、人間を喰い荒らしているように見えた。
刃を擦るような音だけが、ぎし、ぎしと響くが、それはこの布袋を叫ばせるような苦痛を与えるものでは無い。少なくとも、この生き物は、まだ目覚めない。
随分と長い時間を、待たされた。
僕の方から、何らかのはたらきかけが必要だったのでは無いか。そう疑い始めた頃には、その機を逃してしまっているように思えた。
かと言って、僕に出来ることは、何も無い。玉座から降りることは許されない。
Fenrir様は何処に?本当は、僕はこんなところに居る場合じゃ、無いんじゃないのか?
もしかして、既に、Sebaと共に、地上へ向かわれた後なのでは無いか。
此処で彼を懸命に演じていたって、それを見てくれる神は此処にはもう。
ガラ、ガラガラ…ガゴゴゴ…
代わりにゆっくりと、こちらに向かって、近づいてくるのは。
ずっしりと重たい金属を引き摺る音。
それは地下牢に全身を張り巡らせた蛇が、獲物を求めて這いずり回るよう。
通路にぎゅうぎゅうに詰まって、逃げ場のない行き止まりをつくり、追い込んでいく。
その正体が、牢屋の左から姿を現した時は、本当に腑を握りつぶされたような恐怖を覚えた。
鳥籠だ。
円柱の檻に、半球の屋根。その天辺に、鎖で吊るすための輪が設けられている。
大きさは、二人がかりで引き摺って、ようやく持ち運べるようなそれだ。
そう。人がようやく、立ったまま仕舞われていられるぐらいの大きさの。
その発想自体が常軌を逸していることは、この期に及んで些事だった。
問題は、その控えめに凝らされた趣向とでも言うべき構造。
内側に、びっしりと生えている。
−棘だ。
その細さは、針と形容しても良かった。きっと、囚人が暴れるのを防ぐ為の工夫なのだろう。
だが、これが運ばれてきた意味が、未だに伝わってこない。
幾らでも想像してしまえた。
Sebaは既に、侵入者の存在に気づき、狼頭を騙せたと思い込んでいる間抜けな僕をまんまと牢屋に幽閉し、次に自分が戻るまでの間に、目の前の彼と同じ目に遭わせる下準備を整えようとしているのでは無いか。
或いは、そうだ。木に吊るすのだ。
僕が地上で見かけたような最期を遂げさせる為、彼の領地の内側で晒す。
席を立とうか、本当にぎりぎりまで迷った。
逃げなきゃ、全身がそう警告する。
実際、もしあの狼頭が、僕の牢屋の方へと歩み寄ってきていたなら、僕は叫び声を挙げて、玉座の裏側へと逃げ惑っていたに違いなかった。
こんな構造、あり得なかった。
どうして、見物する側も、同じ構造の、同じ立場から、相手を眺めなくちゃならない。
その為に作られた訳では無いのであるから、これは紛れもなく、国が有していた防衛機構だ。彼はそこに巣食っているだけ。本当にそうだろうか。
Sebaに、どのような猟奇的な趣味があっても、これだけは理解できなかった。
自分だけは、安全な位置から、安全に愉しみたいものだろう。ちょうどヴァイキングたちが観客席から剣闘士の戦いに罵声を浴びせるように。
お前は、自らの手で、死を与えたいが為に実際に闘技場に降り、戦いに身を投じようとするほど、勇猛じゃ無い。違うだろう?
…お願いだ。そうだと言って。
牢屋の中で黙々と作業を続けていた狼頭は、立ち上がって、二人の仲間と鳥籠を迎え入れる。
ギィィィィ…
捕虜の収容は、中々に骨の折れる作業らしかった。
狼頭も十分に恰幅が良かったが、布袋をぴったりと、体の形がわかるよう巻きつけられたそれは、さらに二周りぐらい大柄だったのだ。
きっとこの鳥籠で平穏に暮らすには、身動きの一つも許されないだろう。
二人がかりで立ち上げ、籠の中に立てかけるようにして無理やり押し込む。
ずずっ…ぶずっ…
棘が、囚人を守る革を擦り、貫く音がした。
しかし見た目には針の短さも相俟って、存外に鈍い。決してそれだけで腕を貫くような刃渡りでは無いのだ。
特に覚醒した様子は、此方からは感じ取れなかったが、狼頭は手早く鉄籠に錠をかけると、一人が籠の鉄格子を梯子のようにして登って、天辺の輪を天井の鎖と繋ぐ。
「……。」
「まだか?」
自分でも何故、発したのかわからない。その一言は不用意であろうと思いとどまる前に、自分の存在がこの場において異質でないことを確かめたい衝動に抗えなかった。
足を優雅に組み直し、マントを体に優しく巻きつけ、でも声はがらがらで震えていた。
胸が勝手に浅くなって、喉が鳴り、あの‘吸えない’感覚が戻って来る。
別の言い方をすれば、僕は本当に、この場に立ち会わなくてはならないのか。それが知りたかったのだ。
押し寄せる後悔も甲斐なく、一切の物音が止んだ。
全ての準備が整い、狼頭のリーダーが、右手を壁に触れる。
ガラ、ガラガラ、ガチン、ガラガラ…
鎖の撓みが消え、ゆっくりと持ち上がっていく。
ガチャン…
そして、宙で止まった。
「……。」
これで、終わり?
そんな訳ない。
ガンッ…
始まりは、マントを羽織った狼頭の、唐突な檻を揺らす蹴りからだった。




