第1話 知らない天井
後ろ向きに倒れたのだから、そのまま石畳に頭をぶつけてもおかしくないはずだった。だが予想に反し、ユウマの体は地面をすり抜けた。
不思議な浮遊感の中で、さっきまでの神社の景色がはるか遠くへ遠ざかっていく。ただ落ちている。それだけが理解できた。まるで時間そのものが引き延ばされたように、一秒が一分にも、一時間にも感じられた。そんな終わりの見えない落下の中でも、不思議と恐怖は感じなかった。
だが、そんな状態は、突然終わりを告げた。
「ぐぇ」
情けない声を漏らしながら、ユウマは仰向けに床へ叩きつけられた。
目を開けると、黒ずんだ板張りの天井が目に入った。湿った木と埃の匂いが、微かに鼻をつく。どこからか入り込む夜風が、軋んだ窓枠をカタカタと鳴らしている。
「知らない天井だ」
一部には穴が開き、差し込んだ月明かりの中を細かな埃が漂っていた。
どこか夢見心地な感覚を覚えたが、確かに感じる床の冷たさと、身体に残る鈍い痛みは、夢というにはあまりにもリアルだった。
そんなユウマの視界に、不意に人影が入り込む。
小柄で華奢な体つきに、肩にかかるほどの髪は、黒を基調としながらも不思議な色合いをしている。黒髪と呼ぶには淡く、かといって灰色とも違う。まるで黒の中に白が溶け込んでいるかのようで、光を受けるたび、その一部が銀色にも見える。
髪の隙間から覗く、淡い銀灰色の大きな瞳。すっと通った鼻筋に、透き通るような白い肌。そのどれを取っても、驚くほど整っている。
まだどこかあどけなさが残るそんな美少女が、大きな瞳をわずかに見開き、ユウマをじっと見つめていた。
薄く開かれた唇から言葉は出てこない。ただそこに浮かんでいる戸惑いだけは、初対面のユウマにも嫌というほど伝わってきた。
「アナタ……何者?」
ようやく出てきたのは、そんなありきたりな問いだった。
それはこっちのセリフでもあるんだが。その言葉を飲み込み、ユウマが上体を起こす。その拍子に、床板がぎしりと鳴った。
音に合わせるように、少女の肩がわずかに揺れ、その身体がすっと後ろへ引かれる。
ひび割れた壁。床に転がる木片。部屋の隅には脚の折れた椅子が倒れ、蜘蛛の巣が幾重にも張っている。少なくとも誰かがまともに暮らしている場所には見えなかった。
一通り辺りを見回したあと、ユウマは改めて少女へ視線を戻す。
相変わらず、訝しげな目がこちらを向いていた。とりあえず、話してみるしかない。
「えっと……おはようございます」
ユウマが口を開いた途端、少女は驚いたように目を見開いた。
「しゃ、喋った……!」
「人のことを化け物みたいに言うのやめてください」
彼女の無邪気な一言に、思わずツッコミが口をついて出る。
「言葉は……わかるのね」
それきり、互いの出方を窺うような沈黙が流れた。
しばし見つめ合った末、先に沈黙を破ったのはユウマだった。
「えっと、僕はユウマといいます。お名前をお伺いしてもいいですか」
思いがけない問いだったのか、少女は呆気に取られたように目を瞬かせる。
だが、やがてその口元がかすかに緩んだ。
「案外礼儀正しいのね。私はアイリよ」
そっと手を差し伸べた彼女からは、先ほどまでの緊張感は感じられなかった。
「ありがとうございます」
伸ばされた手を掴もうと手を伸ばすと、余った袖がふわりと揺れた。
——ん?
違和感の正体を考える間もなく、アイリは服の袖ごとユウマの腕を掴み、そのまま引き起こした。
「よろしくねユウマ。とーこーろーで」
笑顔で挨拶をしたのも束の間、アイリはユウマの全身をまじまじと見回し始める。
「歳は……私と同じ十歳ってところね。見たところ普通の人だけど、実は魔物だったりするのかしら。それにこの衣服。サイズが身体に合ってないし、変わったデザインだわ」
顎に手を当て、時折腕や肩に触れながら、アイリはユウマをくまなく調べていく。
「それに私との魔力的な繋がりも感じないのよね……そこが面白いわね」
言葉を重ねるごとに、アイリの声には好奇心が滲み始めていた。
「何も隠し持ってないですよ」
ユウマは観念したように両手を上げ、されるがままに身を任せる。
「そんなに怯えなくても何もしないわよ」
アイリは不服そうに唇を尖らせた。
「すみません」
「別に謝ってほしいわけじゃなかったんだけど」
ユウマの取り繕うような謝罪に対して、アイリは腰に手を当て、困ったような表情を浮かべた。
「そうね。もうちょっと色々と調べたいところだけど……」
そう言ってこちらを見つめるアイリの瞳に、また好奇心の火が宿るのを感じ、ユウマは思わず身震いする。幸い、その好奇心がユウマに再び向けられることはなかった。
アイリは『んー』と間延びした声を漏らし、少しばかり考える素振りを見せると、納得したように頷く。
「いいわ。とりあえず私の家に来なさい」
「え、あの——」
「じゃあ決まりね!」
「……拒否権は無いんですね」
ユウマの困惑など意に介さず、「ここで待ってなさい」とだけ残し、アイリは部屋から飛び出して行く。ばたばたと遠ざかっていく足音が消えると、室内は途端に静まり返る。
一人取り残されたユウマは、ようやく今の状況について考える余裕を得た。
先ほどまで神社で不思議な美人と話していたかと思えば、気が付けば、見知らぬ部屋にいた。その上、明らかに日本人離れした整った容姿の美少女までいるときた。
ここまで来れば答えはほとんど出ている。それでも最後の確認とばかりに、ユウマは自分の頬を思い切りつねった。
「痛い……」
頬から伝わるジンジンとした痛みが、ここが現実なのだと改めて認識させる。ただそれ以上に気になったのは、腕を上げるたびに余った布がまとわりついてくることだった。
——そういえば。
アイリと会話していた時からの違和感。
手を見ると、袖口から覗く手が妙に小さい。周囲を注意深く見渡してみるが、鏡になるようなものは見当たらない。
それに、アイリがランタンを持っていってしまったせいで、部屋を照らすのは窓から差し込む月明かりだけとなり、室内は少し薄暗かった。
ズボンの裾を床に擦りながら、窓辺まで歩み寄ると、ひびの入ったガラスの向こうには、見知らぬ街が広がっていた。
月明かりに照らされた石造りの家々。暗く狭い路地に街灯はない。その向こうには草原が広がっている。
さらにその先には、均一な高さの黒い影が夜空を横切るように伸びていた。
一瞬、山かと思った。だが、その輪郭はあまりにも整いすぎている。そこでようやく、ユウマはそれが巨大な城壁なのだと気づいた。
見慣れた電柱も、ビルの明かりも、走り抜ける車の姿もない。
その異質な景色に、月明かりに照らされた自身の輪郭だけが、かすかに重なる。
「知らない風景だ。それに……」
軽く自身の頬に触れる。潤いというか、質感というか、どこか違っている気がする。いうなれば、十代どころか子供の頃の肌に戻ったような——。
「気に入ったかい? 僕からのささやかなプレゼントは」
不意に声を掛けられ、咄嗟に声がした方向に顔を向けると、神社で会った彼女がいつの間にか立っていた。




