第18話 上へ
「……ウマ」
誰かの声がする。
「ユウマ。起きて」
「……ん」
重い瞼を開くと、最初に目に入ったのは心配そうにこちらを覗き込むユラの顔だった。
「身体は大丈夫?」
「全然大丈夫。さっきは助かった」
「良かった」
ユラが安堵したように、ふっと表情を緩めた。
ほんのわずかに下がった眉尻と、柔らかくほどけた口元。いつもの無表情とは違う、年相応の優しい顔だった。
普段から感情を表に出すことが少ないだけに、ユラのその表情は妙に新鮮だった。
——ユラも、こんな顔をするんだな。
思わず、ユウマは少しだけ見入ってしまった。
「なに」
そう言ったユラの表情は、いつもの無表情に戻っていた。
「いや……何でもない」
そう言って、ユウマは立ち上がった。
「これからどうする。ガレスさんたちの助けを待つ?」
衣服についた砂埃を軽く払いながら、ユウマは尋ねた。
「とりあえず……ここは離れた方がいい。できるだけ音を立てずに」
「え?」
そこで初めて、ユウマはユラの様子がいつもと違うことに気づいた。
道中でレッサードレイクの群れと戦った時でさえ、涼しい顔をしていたユラだ。
だが今は、唇を固く結び、普段よりもわずかに顔を強張らせている。
「どういうことだ……? ダンジョンはもう攻略済みなんだろ」
ユウマが素直な疑問をぶつけると、ユラは周囲を警戒したまま小さく答えた。
「……ここは、層が違う」
「層……?」
ユウマも周囲を見回す。
確かに、落ちる前まで歩いていた場所とは、明らかに様子が違っていた。
上の層では所々にしか見られなかった光る鉱石が、ここでは壁一面のあちこちから淡い光を放っている。そのおかげで、松明がなくとも周囲を見渡せるほど明るい。
加えて、岩肌の色や形も微妙に異なっており、同じ洞窟の中とは思えないほど景色が変わっていた。
「詳しい話は、ここを離れてから」
ユラは、できる限り音を立てず、かつ素早く移動を始めた。ユウマもその後を追った。
◇
「どこに向かってるんだ」
先導するユラに尋ねる。
「上。奥に進まなければ、階層主に会うこともないから。あとは感覚……っ!」
不意にユラが足を止めた。
そのまま通路脇にぽっかりと空いた穴へ、顎をしゃくる。
——入れ、ということだろう。
ユウマが素早く穴の中へ身を滑り込ませると、ユラもすぐ後に続いた。
カリ、カリ、カリ――。
硬い何かが岩肌を引っ掻くような音が、通路の先から少しずつ近づいてくる。
やがて姿を現したのは、巨大な百足だった。
無数の脚が岩肌を掻き、そのたびに乾いた音が響く。背に生えた青白い鉱石が淡く発光し、暗い通路を照らしながらユウマたちの前をゆっくりと通り過ぎていった。
「…………今のは」
「《クリスタルクロウラー》。それなりに手強い相手」
ユウマの問いかけに静かに答えると、ユラは穴から抜け出した。
「それなりって……じゃあ、倒せない相手ではないんだ?」
「一体なら。でも群れは……」
ユラがちらりとユウマを見る。そしてすぐに、通路の先へ視線を戻した。
ユウマはその視線に気づいていたものの、特に気に留めることはなかった。
「音を立てれば、他の魔物が寄ってくるかもしれない。何がいるかも分からない場所で、無駄に戦うのは危ない」
「……なるほど」
言われてみれば、もっともだった。
勝てる魔物なら倒して進めばいいと、単純に考えていた。だが、この状況では、勝てる相手だからといって安易に戦うのは危険だ。
そこまで考えが及んでいなかった自分に、今さらながら気づかされる。
「行くよ」
ユウマはユラの言葉に無言で頷く。そしてその後を追う。
しばらく進むと、通路がまたいくつかに枝分かれしていた。
ユラはその場で足を止め、それぞれの通路へ順に顔を向ける。
「……こっち」
「分かるの?」
ユラに、先ほどから思っていた疑問をぶつけてみる。
ユラは、分かれ道に突き当たると、そのたびに少し立ち止まり、どちらに進むべきかを指示していた。
最初の反応からこの場所に足を踏み入れるのは、初めてのはずだ。
「少しだけ風が流れてる。……分かるでしょ?」
風? そんなもの感じないが……。
ユウマがきょとんとしていると、ユラは小さく息を吐いた。
「私と同じなんだから、もっと普段から周りに気を配った方がいい」
「そういうもんなのか?」
ユラは目を伏せ、ほんの数秒だけ動きを止める。
音、匂い、肌に触れる空気。周囲にあるものすべてへ意識を広げているようだった。
「目だけに頼らない。音とか、匂いとか、空気の流れとか。全部拾うイメージ」
「全部……」
「魔物が見える前に気づければ、それだけで違うから。やってみて」
ユウマも真似るように動きを止めた。目に頼らず、周囲へ意識を向ける。
すると、ユラの言葉の意味はすぐに分かった。
依然として頬を撫でるほどの風すらない。それでも、右の通路とは明らかに空気の動きが違う。そう感じた。
それだけではない。
さらに感覚を研ぎ澄ませることで、そのずっと先から、かすかに水滴の落ちる音まで聞こえる気がした。
「……確かに」
「常に意識。忘れないで」
「ありがとう、ユラ」
ユラは特に反応を返さず、そのまま左の通路へ向かう。
ユウマも後に続こうとして——ふと、その足元に目が留まった。
ほんの僅かに、ユラの右足の運びがぎこちない。
「ユラ」
「なに」
「足、痛めてない?」
「……平気」
「いや、今ちょっと——」
「平気」
今度は少し強い口調だった。そう言い切ると、ユラは何事もなかったように歩き出す。
「…………」
絶対嘘だ。
そう直感したが、口には出さない。今は言い争っている暇はない。
ユウマはひとまず、その背中を追った。
しばらく道なりに進んでいく。
途中、何度か魔物と鉢合わせしそうになったが、ユラに教わった通り周囲へ意識を向けることで、近づいてくる気配を事前に察知することができた。
そのたびに物陰へ身を潜め、魔物が通り過ぎるのを待つ。
最初こそユラに言われるがまま動いていたユウマも、何度か繰り返すうちに、自分から異変に気づけるようになっていた。
気がつけば、ユラの背中をただ追いかけていたはずのユウマは、いつの間にかその隣を歩いていた。
二人は並んで、薄暗い通路を進んでいく。
ユラがまたちらりとユウマのほうを見る。
「さっきからどうしたんだよ」
「……別に」
ユウマが首を傾げる。
ユラは何でもないように前を向き、そのまま歩き続けた。




