乾 浩介の場合(2)
表彰式当日、午後になって出席する筈だった先輩が、急な出張で欠席しなければならなくなった。
表彰式の後は社長との会食も設定されており、先輩から、誰か一人誘って補充しろと厳命された。
謝辞スピーチするチーフと主任以外は、並んで立って後は食べるだけなので誰でも良いのだと言う。
そこで、俺は倉吉を誘った。
珍しくその日は内勤でデスクワークしていたのと、そのテーマで必要になった法令に関する資料などを借りた事があったからだ。
直接見せつけたかった気持ちも少しはあったかもしれないーーーが、倉吉は快く承諾した。
夕方、倉吉から「遅れるかもしれない」とメールが入ったーーー直接ホールに向かうと。
そう言えば先ほどふらりと一課を出て行ったきりまだ戻って来ていないーーー行き先表示は『在室』のままだった。
結局俺も電話が長引いたりした為一課を出るのがメンバーで最後になり、急いでエレベーターで三十階へ向かう。
緊張と高揚とで高鳴る胸を落ち着かせつつ、扉が開いて三十階フロアに降り立てば、その光景はやはりあの写真と同じでーーー。
じんと胸に迫りつつも、同時に彼女が此処に居ないことを再確認する虚しさも感じていて、気分が急速に落ち込んでいった。
その時、廊下の方から複数の足音と話し声が聞こえてきた。
低く押さえた口調の男女二人とも早口で、話している内容は聞き取れないが、足音も速く急いでいるようだった。
エレベーターホールに現れた男の顔が見えて俺は絶句した。
それは、ネットやテレビのニュースでしか見た事が無かった、ミツワ・グループの総帥その人だった。
写真で見るより小柄で老けて見えたが、動作は機敏で覇気があった。
総帥は話に集中していて此方を見向きもしていなかったが、俺は一応壁側に一歩退き、軽く頭を下げておく。
そしてエレベーターに乗り込もうとする彼らを見上げてーーーー。
ーーーめ、がみ・・・・?
総帥より先にエレベーターの庫内に乗り込み、くるりと振り返った女性はまごう事なき女神その人で。
この何年かずっと恋い焦がれ、探して探して、一目会いたいと望んできた彼女が、総帥の耳元に話し掛けながらパネルを操作して静かに扉が閉じられていく様を、目の前でスローモーションのように細くなって見えなくなるまで、ただ呆然と眺めていた。
ハッと我に帰り、エレベーターの位置表示を見つめる。
彼女は何階で降りるのかーーー。
(え?)
表示は三十階で点灯したままだった。
しばらく待っても階下へ降りていかないのだ。
試しに下向きボタンを押してみた。
だが目の前のエレベーターの扉は開かず、暫くして斜め後ろのエレベーターが到着して扉が開く。
不思議に思いながらぐるりと六基の扉を眺めた時、ふと、甘い香りがしたーーー彼女の残り香だ。
彼女が通り過ぎたエレベーターホールにふんわりと漂っているそれを、俺は余さず取り込むように急いで吸い込んだ。
声を掛ける間も無かった。
とてもそんな雰囲気では無かったけど。
目も合わせられなかったけど。
でもーーー確かに彼女はいた。
この『ミツワ・エアタワーズ』に女神は本当にいるのだ。
凄いぞ!
写真では無い、歩いて話している生の彼女を目の前で見られた。
こんなに嬉しいことは無い!
ポン、とエレベーターが到着して倉吉が出てきた。
「悪い、遅くなったーーー何だ?」
「ああ、いや・・・」
女神の残り香を吸い込みまくっていた俺は何とか取り繕い、倉吉に足並揃えて廊下へ向かう。
「ギリ間に合ったか・・・」
そう言って腕時計を確認した倉吉の、その上下した腕の辺りから、ふわっと漂った甘い香りーーーー。
ーーー!
瞬間、エレベーターホールを振り返っていた。
彼女と総帥が消えた扉の位置表示が、一つ一つ階下へ降りていくーーー。
ーーー。
ーーー。
「倉吉、お前上から降りて来ただろう」
「はあ? 何を寝ぼけてるーーーー急ごう」
ホールからマイクで進行役の声が聞こえていたーーー。
晴れがましい表彰式も上司のスピーチも、感動しつつも何処か上滑りで、会食のフルコース料理も美味かったが何を食べたか記憶に残らなかった。
その間、何度も繰り返し再生していたのは扉の隙間から見えていた女神の姿。
それと先程のエレベーターと倉吉とのやり取りが頭を離れなかった。
廊下で倉吉から漂って来た彼女の残り香は、元々廊下に残っていた香りの可能性も無くは無い。
倉吉が乗って来たエレベーターも、しばらく三十階に留まっていたもののその内下に降りて、何階かで総帥と彼女は降り、その後アイツが乗って上がって来た可能性だって無くは無い。
俺もずっとあのエレベーターの位置表示を睨んでいた訳じゃ無いから。
無いがーーー。
俺の勘が怪しいと告げていた。
会食後社長は退席し、いわゆる無礼講になったので各人席を離れてそこかしこで談笑し始めた。
倉吉を捕まえて追及したい所だが、周囲に人目もあり、折角の機会なので社交に専念することにする。
倉吉も他部署の受彰者である同期を見つけて話し込んでいた。
そうこうするうちにお開きとなり、俺はその同期と倉吉の三人で
会場を後にする。
「良い経験をさせて貰った。乾には感謝だな」
と、礼を言ってくる倉吉に、「礼なら犬塚さんに」と欠席した先輩の名を上げるに止め、その日は別れた。
以後、エレベーターに乗れば上層階が気になった。
エレベーターの操作パネルの行き先階ボタンは三十階が最上で、その上は『R』ーーーヘリポートのある屋上だ。
噂ではどこかに重役が利用するためのラウンジや客室があるらしいが、そのフロアには特別なIDカードが必要とかーーー誰にも確かめられていないが。
せめてあの時、名前だけでも聞けていたならーーーー。
あれからはグループの総帥周辺について探りを入れているが、これがなかなか捗らない。
分かったのは総帥の専属秘書は五十代男性で、側近と呼べる人物も男性ばかりで女性はいないということだった。
倉吉にもカマをかけてみたが、何を言ってるんだ、と相手にもしない。
同じ職場で二年以上の付き合いになるが、仕事のことはよく話しても、プライベートに話が及ぶとスルリと躱された。
合コンや親睦会に誘っても、予定があるからとその多くは断られーーー謎の多い男だった。
俺たちはその頃には複数のPJTを掛け持ちするようになっていて、会社でお互いの姿を見る事も珍しくなっていたから、エレベーターの件も結局追及出来ないまま仕事に忙殺されていった。
そんなある日、倉吉に凄い美人の恋人がいるらしいという噂を聞いたーーーー。




