第二話 (一)
――第二話 想いが向かう先――
薄暗くなった廊下に響くのは二つの足音。
一つはスキップでもするかのように軽やかで、もう一つは機械が歩いているかのように一定のリズムを刻んでいる。仮に遠くで伝わる音だけを聴いたのであれば、どこまでもかけ離れた音色。
だが、音を奏でる二人は、まるで「二人で一人」だとでも言うかのようにピタリと寄り添い、歩調を合わせている。こんな事が自然と成せるのは、七年という時間を共に過ごしたためなのか、お互いを大切に想い合っているからなのか。
それは機械的なリズムを奏でるステラには分からなかった。と言っても隣を歩くお嬢様に問いを放てば、即座に「愛の成せる業」とでも言うのだろうけど。
そんな重要なような、どうでもいいような事を考えていると。
「今週も無事に終了だね」
白亜に塗られた天井に向けて、両腕を伸ばしながら桜が呟いた。
ステラの右隣を歩くお嬢様の表情は、こちらまで微笑んでしまうかのように晴れやかで気持ち良さそうに見える。その理由は、今日が金曜日だからだろう。
誰しも明日が休日となれば表情が緩んでしまうものである。ステラとて、明日は「聖ロマリア学園」に来なくていいと思えば気が楽だ。あの煩わしい「認証カード」に振り回されずに済むのだから夢心地な気分とでも言えるだろう。
叶うのならば休日は、館の掃除に手の込んだ料理くらい作りたい気分だった。
しかし、それは叶わない事は最初から分かっている。明日はお嬢様にとっても、ステラにとっても大切な日なのだから。
あえて濁すという手段もあるが、それでは何も始まらないと思ったステラは――
「今週も特に問題はないかと。むしろ、重要なのは明日だろう?」
思い切って、翌日の事に触れてみる。
お嬢様はステラとのデートだと思っているようだが、少しでもいいから異性である紅咲に興味を持たせたいのだ。同性を好きになってしまった桜も一応は女性。
一度刺激してあげれば、異性に対する想いが芽生えるかもしれないのだ。それはある意味では、異性を好きになれない紅咲にも言える事なのかもしれないが。
しかし、さすがと言うべきか。
「そうだね。デートだもんね」
お嬢様はステラの事で頭が一杯のご様子。
ここまで想ってくれるのは正直な事を言うならば悪い気はしないのだが、さすがに世話師であるという事を考えれば気が引ける。しかも、この年の差を思うと、教師が教え子に手を出す様なものではないだろうか。
(……なんだか急に寒気が)
自身の想像がおかしな方向に進んでいる事に気づいたステラは、慌てて思考を霧散させる。そして、雪を思わせる程に白い肌を紅潮させた桜に温かな茶色の瞳を向けて。
「紅咲とも仲良くなれるといいな」
それとなく新しい友人の名前を述べる。
まずは軽く桜の心を揺すってみるという訳だ。効果があるのかは謎だが、どんな反応を示すのか注意深く見守るステラ。
「うん。でも、紅咲くんとは……もう打ち解けたよ?」
すると、桜は何を今さらと言わんばかりの顔で小首を傾げた。
やはり子供と言うのは友情を育むのは早いらしい。仮にステラがここで友人を見つけようと思えば、おそらく三年あっても出来るかどうか分からないと思うからだ。
(しかも……すでに下の名前で)
常に側にいる筈なのだが、いつ切り替わったのか分からないステラ。
おそらく文か美咲と話していた時に、何やら変化があったらしい。それはステラの目標を達成するためには願ってもない事なのだが。
(なんだ? 心が落ち着かない?)
何故か心が騒いで仕方がない。
何かしなければと訳もなく心がざわつくのだ。しかも、それだけではなくて、まるで心の半分が空っぽになってしまったかのような底知れない恐怖を感じる。
今まで感じた事もない、未知なる恐怖。だが、その恐怖を感じた事がないステラには正体が分からない。当然、桜に対してどんな言葉を返していいのかも分からなかった。
「……ステラ?」
そんなステラを訝しんだお嬢様は、顔を覗き込んで来た。
その瞬間に穢れを知らない無垢な瞳が、ステラの茶色の瞳と重なる。桜の深緑を思わせる瞳は心配そうで、放っておけば悲しい気持ちを外へと止めどなく流してしまうだろう。
「いえ……理由は分からないのだが。どうもおかしい」
「おかしい?」
このまま黙っている訳にはいかないステラは正直に答える。
すると、桜は眉根を寄せて言葉を返す。本当によく表情が変わる子だと思う。
ステラ自身もお嬢様のように表情豊かであれば、言葉で述べなくても全てが伝わるだろうに。しかし、それは叶わないステラは感じたままを言葉にしていく。
「どうも……心がざわつく。どうしてだろうな?」
桜に分かる訳はないとは思うが、言葉に出して見れば形になると思ったステラは自らに問う様に言葉を紡ぐ。
すると。
「そっかぁ。嫉妬してくれるんだね、ステラ」
お嬢様は何故か頬を緩めて、小躍りしそうな程にご機嫌だった。
(……嫉妬? 誰が誰に?)
しかし、ステラは自身の主が述べた言葉が初めて「分からない」と思った。
おそらく、そんな深い意味はないのだと思う。それでも頭の中にはおぼろげな形すら浮かばなかったのだ。
「分からない? 紅咲くんに……ステラが嫉妬したの」
そんなステラを見かねたのか、お嬢様は小さな体を預けて囁いた。
その言葉はどこまでも優しくて、まるで恐怖に震えるステラを慰めてくれているかのようだった。
冬も本番で日が短くなりつつある昨今。すでに廊下は薄暗くて、ステラと桜以外に人はいない。密着しても朝や昼とは違って騒ぐ者はいなかった。
それはそれで良くて、問題は桜が述べた言葉で。
「私が……嫉妬?」
自身でも間抜けだと思うが、桜へと問い返してしまった。
それと同時にそんな事はないと心へと言い聞かせる。だが、桜の体から伝わる温かさは、ステラの恐怖を綺麗に消し去ってくれる。
そう。
桜が自身の側から離れてしまうかもしれないという恐怖を埋めてくれているのだ。触れる温もりが、伝わる鼓動が「心配しないで」と言ってくれているような気がしてならない。正直な事を言えば、こんな気持ちになった事は七年間で一度もなかったかのように思う。
一体、何だというのだろうか。ステラは自分で自分が分からなかった。
「大丈夫。私はずっと……側にいるよ。叶うなら、ずっと」
そんなステラの気持ちを触れた体から感じているだろうか。桜は変わらない口調で言葉を返してくれた。
その言葉が届いた瞬間。
ステラは胸が締め付けられるような感覚に襲われる。おそらく真剣の稽古をしている際に誤って手に切り傷を負った時よりも、鋭い痛みがステラの胸を襲ったのだ。
(私は……何をしているのだろうな)
お嬢様に異性を好きになって欲しいと願いながらも、側にいたいと願ってしまうステラ。
それは単なる子離れを惜しむ母親の心境なのか、それとも桜が言う様に嫉妬なのか。それは分からない。
だが、今はこの温もりを放したくないというのが本音だった。
だからこそ、ステラは小さな体にそっと、まるで壊れ物を扱うように腕を回して包み込む。いつかは離れてしまう温もりを胸で受け止めていたいと思ったのだ。どれだけ時間が経っても、決して忘れないように。いつでも思い出せるように。
大切だからこそお嬢様には正しい道を進んでほしい。この胸にある、まだ形の見えない気持ちを胸に押し込めてでも達成しなければならないのだ。
これが桜の「世話師」となった自身の役目。
特にステラが原因であるというのであれば、自身がどれだけ辛い思いをしても成し遂げなければならない。
ただ自分の心を誤魔化しているだけのような気もするが、とりあえずは気持ちを落ち着かせたステラは胸に抱いた愛しい存在から一歩離れて。
「私はお嬢様の世話師。ずっと……あなたの側で仕えよう」
平常心を整えると共に、凛とした涼やかな声を出す。
少々わざとらしい気もするが、とりあえずは「いつもの調子」で話せている事だろう。
それを証明するかのように――
「うー。ステラは私の王子様なんだよ」
ステラがいつもの調子に戻った事に安堵したらしい桜は、ぷっくりと頬を膨らませている。どうやら、いつものようにステラの言葉が気に入らないらしい。
どうあっても、ステラを恋人というよりも「王子様」にしたいらしい。
(本当に困った、お嬢様だな)
そんな桜の様子に表情を和らげたステラは、そっと人形のような細い肩に手を置いて。
毎朝の日課である目覚めのキスを桜の額へとプレゼントする。
「スっ……ステラ!」
すると、今の今まで頬を膨らませていたお嬢様は、見えている肌の全てを紅潮させていく。いつもはおねだりをする癖に不意打ちはどうやら苦手らしい。
やはりこういう所はまだまだ子供だと思う。と言っても、その子供に嫉妬していると指摘される自分も未熟だと思うのだが。
それでも未熟な者同士だからこそ歩いていけるのかもしれない。お互いに分からない事があって、時には寄り添い、時には姉妹のように冗談を交わしながら触れ合って。
そうして歩いていけば、桜とステラは問題なく進んでいけるのだ。
「帰ろう、桜」
もはや何の不安も感じないステラは姫をエスコートするかのように、そっと右手を差し出す。
「うん!」
その手に触れたのは小さな手。
ステラに絶対の信頼を向けてくれる主の手だった。その手を握ったステラは、彼女の一部であるかのように歩調を合わせて歩いていく。そんなステラへと向けられたのは、夢を見ているかのように瞳を輝かせたお嬢様の視線だった。




