第二話 (六)
「たまには……いいな」
紙コップに入ったホットコーヒーを一口飲んだステラは感慨深そうに一言。
映画館の売店で購入した安物ではあるのだが、普段は桜に合わせて紅茶を飲んでいるステラにとっては懐かしいとすら思えてしまう。
思い起こせば一年くらい飲んでいないのではないだろうか。世話師となって七年。どうも自身は完全にお嬢様中心の生活となっているようだ。
と言っても自ら望んで合わせている部分もあるので、不快な思いはしないのだけれど。
そんなステラが現在腰を降ろしているのは映画館内に設置された休憩スペース。
灰色をした絨毯が一面へと敷かれ、その上に丸テーブルと簡易的な椅子が二つずつ設置されているものだ。しかし、映画の待ち時間を過ごすには程よい場所と言えるだろう。
(……だが、二時間はさすがに長いか)
お嬢様と紅咲の二人だけで映画鑑賞をさせる事には成功したが、その後の事をほとんど考えていなかったステラは暇を持て余している。
こうしてコーヒーを飲みながら周囲に視線を向けたとしても、せいぜい三十分程度の時間を潰せるくらいだろう。
これならば離れた場所に席を取って様子を見ていた方が良かったのかもしれない。そんな今さら考えてもどうしようもない事を思っていた時に。
スーツの上着にあるポケットに収納していた情報端末が微かに振動した。
(……誰だ?)
桜が側にいる時なら後回しにするが、今はいい時間潰しになると思ったステラはさっそく縦に長い長方形をした端末を取り出す。
すると、どうやら通話ではなくて一件のメールが届いていたようだった。差出人は杉本文。極力関わらないようにしているステラは、自身の連絡先を教えるつもりはなかったのだけれど、しつこく問われて根負けしてしまったのだ。
だが、別段嫌っている訳ではないために、こうしてメールが届くというのは案外嬉しかったりするのは、ここだけの秘密だ。
(……内容は)
さすがにメールの受信だけを眺めていても仕方がないため、端末を指で突いて操作しようとしたのだが。
それと同時に忙しなく情報端末が腕の中で暴れようとする。どうやら今度は電話らしい。
「――ステラだ」
内心では忙しい高校生達だと思うが、若さが溢れている娘達ならばこんなものだろう。
『すみません。今は時間……大丈夫ですか?』
確認もせずに通話ボタンを押したが、案の定通話の相手は文だった。
メールの返事を待つ事もなく電話という事は、まさか急ぎの用事だろうか。もしかしたら、天はステラがついた嘘を現実のものとしたいのかもしれない。
しかし、そうは言ったものの、確認して見なければ分からないのは確かで――
「何か用か?」
とりあえずは用件を確認する。
言いにくい事であるならば、こちらから切り出してあげるというのも優しさというものだろう。その判断は正しかったらしく、文は安心したように一つ息を吐いて。
『今……どちらにいます?』
雑談をする事もなく、すぐさま本題を切り出した。
その声はどこか固くて、冗談を言う事も断る事も出来ない独特の雰囲気を醸し出していた。端末越しでも伝わるという事は、これから伝えたい事は彼女にとっては余程重要な事なのかもしれない。
(……断るのも気が引けるか)
見知らぬ他人なら無視も出来るが、桜を通じて関わっている少女だ。
さすがに無下には出来ないステラは――
「五番街の映画館にいる」
周囲のざわめきに負けないように、強く言い放つ。
五番街と映画館という情報を伝えれば、自ずとこの場所が浮かぶ事だろう。他には何か質問はないかと、端末越しに言葉を待っていると。
『……二人も一緒ですか?』
文は立て続けに問いを放った。
顔を見て話している訳ではないが、何だかいつもの雰囲気と違う気がする。こんなにも一方的に話す様な娘だっただろうか。少々、疑問というべきか、心配な気がしてきたステラは一度息を吐いて心を落ち着かせる。
そして、迷わず彼女へと言葉を返す。
「お嬢様と紅咲は……現在は映画を観ている。つまりは一人だ」
『――五分で行きます』
すると、文は早口で用件だけを伝えると、すぐに通話を切ってしまった。
「……なんだ?」
一体、彼女は何が言いたかったのだろうか。
しかし、もう彼女の言葉を伝えてはくれない端末を眺めていても答えなど分かる訳もなく。ステラは重い溜息をついてから彼女とおそらく一緒にいるだろう、その友人を待つ事にする。
時間にして約四分。
ちょうどホットコーヒーを飲み終えた頃に姿を現したのは、ボーイッシュな見た目をした少女と、登山にでもいくような厚手の白を基調としたネルシャツに、下は定番の茶色と砂色組み合わせた山スカートと山レギンス姿の少女だった。
私服姿のために一瞬分からなかったが、自動ドアを潜り抜けて迷うことなく進んでくるのは美咲と文だろう。
しかし、ステラはさっそく違和感が胸をよぎった。
その違和感の正体は、普段はおとなしい文が美咲の手を握って歩いているからだ。そして、手を引かれる美咲は何だか泣きそうな顔をしている。いつもと立場が違うというのか、性格が真逆になっているような気がするのだ。
(……本性を見誤ったか?)
双海紅咲を大人しい男だと思い込んでいた事もあったくらいだ。限定的な付き合いをしているだけに過ぎないステラは彼女達を正確に把握しているとは断言出来ない。
だが、こうも違うとさすがに戸惑ってしまう。その戸惑いは自身を動かすには十分で、いつの間にか紙コップを手に取って立ち上がっていた。
そんなステラに、文は強い意志を込めた瞳を向けて。
「ステラさん、お願いがあります」
周囲の窺うような視線を、微かに漏れた戸惑いに満ちた声を無視して述べた。
年上を目の前にして、その心意気は素直に認めたい。だが、さすがに用件が分からないのでは、どうしようもないのも事実で。
その用件が知りたくて仕方がないステラは――
「用は何なんだ?」
淡々と質問を投げかけた。
他に掛ける言葉など無数にある気もするが、今はこの言葉が適しているのは間違いないだろう。しかし、先に言葉を発したのは文ではなくて。
「文……まさか今から参加するの?」
普段の彼女からは想像出来ない、囁くような声を出したのは美咲だった。
そんな彼女は頬を朱色に染めていて、まるで恋する乙女のようだ。文も気になるが、美咲の様子も気になって仕方がないステラ。
案外自分は人の心を読むのが苦手なのだろうか。そう思ってしまう程に、ステラの脳内には疑問で一杯だった。唯一ヒントがあるとするならば、美咲が述べた「参加」という言葉。そして、この場合で参加が可能な事と言えば一つしかないだろう。
しかし、ステラは――
「今からデートに混じるのか? 何のために?」
その唯一の事に参加する理由を問わずにはいられなかった。
文はともかくとして、武道場でのやり取りの一部始終を見ていた美咲はデートの目的を知っている筈だ。そして、デートの参加についても一度辞退している。
だというのに、今になってどうして参加するのだろうか。
そう思った瞬間。
脳裏に浮かんだのは、武道場に向かう際に美咲の様子がおかしかった事だ。その事と現在彼女の顔が真っ赤になっている事を思うと答えは出るのかもしれない。しかし、これは憶測の域を出てはいない。今は確かな情報を得るために黙して待つのが正解だろう。
しかし、黙して待ったのは一秒にも満たない時間で。
「美咲と双海君をくっつけます」
美咲を視線だけで制した文が、ついに目的を明らかにしたからだ。
その目的はステラが先ほど考えていた事と同じだったため、さほど衝撃を受ける事はなかった。だが、文が語った事はステラが成そうとしている事と道を違えてしまっている。
ステラの目的はお嬢様と紅咲を結びつける事なのだから。
つまり文はステラの目的達成を妨害する相手と言っても過言ではない。しかし、桜の友人でもある彼女にあからさまな敵意を向ける訳にはいかないのも事実だった。
「事情はここに来る間に聞きました。それでも私は……一歩も引きません」
しかし、文は友人の世話師だと分かっていても手加減するつもりはないらしい。
ここまではっきりと断言されれば、こちらも徹底抗戦の構えを取るかもしれないという事を考えなかったのだろうか。
(高校生相手に本気は……大人気ないか)
ただの数秒で幾つかの可能性を考えたが、結局は一つ息を吐いて心を落ち着かせる事を選ぶステラ。この場で一番の年長者が道を示すべきだと思ったのである。本当に彼女達に甘いと思ってしまうが、人として越えてはいけない線というものがあるのは確かだ。
それを示すためにもステラは――
「まずは落ち着いてくれ。そう睨むな」
あえて柔らかく微笑むと共に、言葉と想いを二人へと届ける。
これで何とか対話出来る流れに持っていければ、この場を収める事が出来るだろう。
しかし、その期待は一秒も経たずして、粉々に砕かれてしまう。
「ステラさんは……桜ちゃんが離れてしまってもいいのですか?」
どこか会話が噛みあっていない気がするが、これは文がステラの心を揺さぶるために選んだ問いだろう。七年間も家族同然に過ごしてきた少女が離れていくのだ。それは娘を嫁に送り出す父親のような葛藤があると思ったのかもしれない。
(なかなかに……痛い言葉をぶつけてくるな)
相手が意図的に選んだと思われる言葉を一度、二度心で反芻したステラは密かに拳を握り締める。桜はいつかステラの元から巣立たねばならないと思ってはいるが、それが今だと言われると抵抗を感じてしまうのだ。
そう。
紅咲と結ばれるように仕向けながら、それでも心の奥底では離れたくないと思っているステラ。叶うならまだまだ彼女の側で世話師としてありたいと願ってしまうのだ。
ステラ自身でも矛盾しているのは分かっている。だが、ステラとて人間だ。これくらいの揺れはあって然るべきなのかもしれない。それでもお嬢様の事を思うならば、揺れてはいけないのではないかと思ってしまう。
そんな相反する心はステラの心の中で暴れ回る。しかし、その暴走を止める術は分からない。彼女達から見れば大人に見えるのかもしれないが、ステラとて二十代中頃。
完全に自分の心を制御出来る訳ではないのである。そういう意味では文は的確にステラの心を貫いたと言っても過言ではない。
「離れたくないと願うなら……美咲という友人のために力を貸して下さい」
そんな彼女の次なる手段は。
友達のために力を貸して欲しいという全うなものだった。しかし、その裏側には断れば桜の「友人」を見捨てた冷たい人だというつもりだろうか。
さすがに考え過ぎている気もする。だが、仮に狙ってやっているとするならば、本当に高校生なのかと疑ってしまう程の切れ者かもしれない。
実際にステラはどう答えるべきか迷ってしまった。その理由は紅咲と桜は相性がいい気がするが、必ずしも彼を選ぶ必要がないからだ。桜の友人である美咲の恋を邪魔する程の理由が果たしてあるのか疑問に思ってしまう。
しかし、同時に思う事が一つあった。
(共に歩む相手を決めるのは……それぞれの筈だ)
それは、ステラや文がどれだけ手を尽くそうとも最終的に決断を下すのはお嬢様達なのである。如何に心躍るような演出をしても、必ず相手に好意を持つとは限らないのである。
それを証明するかのように。
「文。さすがにやり過ぎというのか……言い過ぎだよ」
ここに来て初めて美咲が手を引く文を拒んだのである。
おそらく自身が辿り着かなければいけない地点と、文が求める地点が別のものに見えてしまったのだろう。
しかし、それは同時に文を裏切るという事でもあって。
「私を頼ってくれるのではないのですか?」
言葉を受け取った彼女は、表情を蒼白に変えると共に美咲を見つめていた。そんな彼女の声は震えており、何か触れてはいけないものに触れたような気がする。
しかし、その正体が怒りなのか、恐怖なのか。それとも、また別の何かであるのかは分からなかった。
「文? どうしたの。今日の文は少しおかしいって」
それは美咲も同じらしくて、震える彼女を見て戸惑っているようだ。
他人の心を読む事が得意な彼女でも分からないという事は、もはや家族などの身近な人にしか分からないものなのかもしれない。
何か声を掛けてあげるべきだとは思うが、あまりにも理解の範疇を超えているためにステラは腕を組んで静かに待つ。
文を見捨てた訳ではなくて、この場に適した言葉を二人へと届けるために。
そんな想いが伝わったのかどうかは分からないが。
「美咲も『あの子』みたいに私の側を離れるのですか? 私が同性だから?」
ステラ達だけではなくて、映画館を埋める人すらも注目している彼女が口を開いた。
しかし、その言葉はとてもではないが理解出来るものではない。おそらく言葉を放った彼女にしか分からないだろう。もしかすれば彼女の妄想癖が悪い方向へと突き進んでいるのかもしれない。
普段は誰かと誰かが結ばれる、という幸せな妄想ばかりを思い浮かべる彼女だが、今回は何かしらの過去の痛みを思い出して、悪い方向に妄想が進んでいるのかもしれないと思ったのだ。
それを証明するかのように、文の瞳は仇でも見るかのように鋭い。彼女の瞳はおそらく美咲を見てはいないのだろう。
「本当にどうしたの? 何か抱えてるとは……思ってたけどさ」
そんな彼女に詰め寄られて戸惑った様子を見せたのは、当然美咲だ。
しかし、さすがにステラよりも深い所を知っている彼女は文が抱えているものの輪郭くらいは見えているようだった。それを知りたいとは思うが、これ以上は関わってはいけない気もする。
そうしてステラが悩んでいる間に――
「私……また。忘れたと思っていたのですが」
文が囁くような声を上げて、糸が切れた人形のように全身の力を抜いた。
当然、立っている状態で力を抜いたならば倒れるのは自然の事で。文は美咲に体を預けるようにして倒れ込んだ。
それを受け止めた美咲は心配していいのか、戸惑えばいいのか。対応に困ったような顔をしていた。そんな二人とステラに集まるのは怪訝そうな視線。もうこれ以上ここにいる事は不可能だろう。
それに映画が終わるまでは後一時間程はある。少し離れても問題ないだろう。
そう判断したステラは――
「美咲、外へ。近くに馴染みの喫茶店がある」
壊れた人形のようになった少女と、戸惑う少女の肩にそっと手を置いて指示する。いや、指示というよりも拒否権がない命令に近いものかもしれない。
だが、美咲にしても、この場で晒し者として居続けるつもりはないらしく。
「分かった」
ただ短く返事をして、文を支えるようにして歩き出した。
そんな彼女達の背中を見守るようにして、歩くのはステラ。ただお嬢様の事だけを考えていればいい仕事に就く者だった。
少々残酷ではあるが無視をしてもいい立場ではある。それでも、さすがに文の変わり様は異常であり、放って置く事は出来なかったのだ。純粋な興味などではなく、お嬢様の友人だからでもなく、一人の友人として心配だったのである。
(……何をやってるんだろうな)
世話師としては失格だとは思う。
しかし、一人の人としては正解だろうと心に言い聞かせて。ステラは淡々と灰色の絨毯を踏みしめたのだった。




