第二話 (五)
弱まった陽の光が照らし出すのは一つの映画館だった。
形状は一言で言うならば、横に長い長方形。一階部分は灰色のコンクリートで覆われ、二階部分は外が見渡せるように一部がガラスとなっており、どこかオシャレだった。
取り分け珍しい形状をしていない、その映画館は五番街の中心にあり、メイン通りを北に向かって進んでいった際はショッピングで歩き疲れた足を休めるには程よい場所という事も出来るだろう。
しかし、この場まで辿り着いた一向。その中でもステラ・クロスフィールドはあえてこの場に二人を連れてきたと言っても過言ではない。
(……この二人には最も効果があるだろう)
彼らに異性同士の恋愛を疑似体験させる事によって、眠った想いを呼び起こす事が目的だ。つまりは現在絶賛公開中の恋愛映画を観てもらおうという訳だ。
どれほどの効果があるかはさすがに未知数だけれど、二人きりで時間を過ごせば効果はあると思いたい。無かったとしても、他に何か手を打てばいいのだから特に問題はないだろう。
「今は何をやってるの?」
予め映画館に行くと教えてある桜は、ステラの腕に絡めている腕に力を込めて問う。
道を歩く際はまるで離れようとしないお嬢様には困ったものだが、今日はデートのつもりらしいので仕方がないかと思う。そもそもこれくらいの事を気にしていたならば彼女の世話師など務まらないだろう。
それらはステラの日常であるので気にはしない。それよりも重要なのは彼女が発した問いに答える事で。
「今はアクション映画とシリーズものが……それぞれ二つ。だが、二人が観るのは『ただ君を想う』というタイトルの恋愛映画だ。すでに席はとってあるので楽しんできてくれ」
ステラは予め用意してあった言葉を淡々と述べる。
だが、実はこれからが本番だ。桜がステラを置いて映画を観ようとするかどうか。それが最大の懸念事項である。
「二人? ステラは?」
やはりというべきか、桜は首を傾げたまま頬を膨らませている。
どうやら一緒ではない事にご立腹のようだ。そんな桜を瞳に収めたくはないのだが、さすがに今回は引き下がるつもりはない。
「私は外で待っている。今回は二人が友達となった事を記念したものだからな。映画くらいは二人で観るのがいいだろう。それに、少し美咲達に頼まれていた事があって……そちらを手伝ってくる」
断る理由として、この場にはいない人物の名を使うのは気が引けるが、この際はどんな手段も使おうと思う。全てはお嬢様のために。
「そう言えば、あっちは忙しいんだってね。桜ちゃん、二人でいい?」
さすがに話が分かるというのか。紅咲は一度ステラに視線を合わせるだけで、話を合わせてくれた。と言っても彼にも彼なりの目的があって協力しているのだ。異性と恋愛映画を観るという事をプラスと判断したらしい。彼にとっては誰かに強制されなければ決して足を踏み入れない領域だろうから。
「うーん。でも、いいかな。ステラが離れる時は……何か準備している時だもんね。でも、いつか話してね」
そして、しぶしぶ桜は紅咲の提案を受け入れた。
それと共にステラが何かを企んでいる事を見抜いているようだった。そうは言ってもここまであからさまだと、気づいてしまうのだろうけれど。だが、本当の目的がどこにあるのか。そこまでは辿り着けないだろう。
そう思うと隠し事をしているようで、胸が張り裂けそうになる程に痛む。だが、二人には正しい道を歩んで欲しいという想いも嘘ではないのだ。誰かに理解して欲しい訳ではない。だが、願うならば全てが上手く行く事を祈るのみだった。
*
周囲を満たすのは薄暗い空間。
そして、桜の体を受け止めてくれるのは柔らかな感触だった。この柔らかさであれば、二時間くらいであれば平気で座っていられるだろう。ステラがいないというのは寂しくもあるのだけど。
一体、自身の世話師は何をしているのか。最近のステラは考え事をしている事が多くて、ずっと側にいた桜でも不思議に思う事が多い。何か話せない事があるというのだろうか。彼女の事であれば、どんな事でも受け止める自信があるというのに。
本来であれば今から始まる映画の事や、左隣に座る友人の事について考えなければならないのだろうけれど、桜の頭の中は想い人の事で一杯だった。
そんな桜の事を考えてくれたのか。
「あと、五分ですね。桜ちゃんは映画……よく観るのですか?」
紅咲は包み込むような声を届けてくれた。
おそらく下手な女性よりも柔らかい雰囲気を醸し出している中性的な彼は、どこかステラと似ている気がする。性格はステラの方が男性に近い気もするけれど、桜の事を考えて言葉を掛けてくれる辺りは似ていると思う。
「あまり映画館には来ないかな。どちらかと言うと……家で観る方が好きかも」
想い人に似ているからなのか、桜の言葉は不思議と柔らかくなる。
それは意図したものではなくて自然と変化してしまう。ここまで来ると、自身の脳内は彼女の事で埋め尽くされているのではないか、そう思ってしまう程だった。
そんな桜の思っている事など知る事はない紅咲は――
「そうなんですか。実は僕も……あまり来ないんです。休日は竹刀の素振りをするか、読書をするか……それくらいで」
桜の声音で話を続けてもいいと判断したらしく、言葉を返してくれた。
だが、彼との会話にはどこか距離があるような気がする。やはり友人となって日が浅いからなのか。それとも異性だからなのか。
おそらく後者ではないかと桜は思う。そう思った理由は、美咲と文とは何の違和感もしなかったからだ。では、なぜ異性だとこうも距離が開いてしまうのか。
それは男性という存在を全く知らない桜にとっては理解する事は出来なかった。だからこそ、桜は彼を見続ける。ただ答えを知るために。
「どうかしました?」
すると、桜の不自然な視線に気づいたらしく。
紅咲は整った眉を怪訝そうに歪めた。さすがに不審に思うのは当然だろう。
「少しは打ち解けたと思っているんだけど……ちょっと距離を感じる」
もう気づかれているならば隠す必要はないと感じた桜は胸の内を語る。
もしかすれば、彼から何かを知る事が出来ると思ったのだ。異性を遠ざけられて育った桜が知り得ない大切な事を。
「それは……たぶん僕が男性だからだと思います。実は異性の友人は初めてで……どう接していいのか分からない事もあります」
しかし、彼は答えを知らないようだった。
苦笑いを浮かべて語る彼の横顔は嘘を言っていないように思える。
(……お互いにどうしたらいいのか分からないんだ)
情報は不足しているけれど、強引に結論付けた桜は一つ息を吐く。
そして、叶うならば答えが分かる時がくればいいと思う。性別のせいで友人を失う事は悲しい事だと思うから。
それに今からでも開いた距離は縮められる。今ここで共に時間を過ごす事は無意味ではないと思いたい。
そう信じたい桜は――
「一ついい?」
友人として一歩近づくために言葉を紡ぎ出す。
すると彼は何かを感じ取ったのか、話しやすいように一つ頷いてくれた。どんな問いでも受け止める。そう言ってくれているような気がした。
もう何の懸念も感じない桜はゆっくりと口を開く。
その瞬間に場内を照らす照明が弱まる。どうやら映画が始まるらしい。しかし、開いた口は止められなくて。
「まずは敬語を止めよう。これが最初の一歩」
ステラと出会った時と同じように、彼の敬語を指摘する。
ステラも紅咲も、なぜか年下である桜に敬語を使いたがるのが気になってしまうのだ。彼がどう思って、どう判断するのか。その答えは数瞬を開けて、彼の口から紡がれる。
「それは……。でも、そうだね。友人に敬語は不要だよね」
まるで二人の友情がこれから始まるかのような確かな兆しとなって。
その答えに満足した桜は一度強く頷いてから、前面に展開されているスクリーンを見つめる。ステラが用意してくれた席は二十列ある場内の後方寄りの席だった。
音もよく響いて、そして映像も見やすい。そんな鑑賞には適した席で始まった映画の内容は。
簡単に言うならば高校生の少年、少女の恋愛を描いた作品だった。
しかし、それは前半だけで中盤からはヒロインの少女は「病気」を患ってしまう。その病気については、この作品のオリジナルらしく、徐々に衰弱して死に至る不治の病という設定だった。
そこまでは静かに席に座って鑑賞する事は出来たのだが、それ以降は瞳に涙が溜まって景色の全てが霞んでしまう。耳へと届く音と悲痛な声でおぼろげながら内容は分かるけれど、流れる映像を直視する事は出来ない。
理由は単純で、ヒロインの少女と自分を重ねてしまったのだ。桜もいつこの命が散ってしまうのか分からない。とてもではないが他人事だとは思えなかったのだ。それでも、さすがに上映中に席を立つ訳にもいかずに零れる涙を必死で堪えていると。
「大丈夫?」
微かな囁きが聞こえると共に、水色のハンカチで涙を拭われていた。
どうやら紅咲は桜が泣いている事に気づいたようだ。それも、ただ感動して泣いている訳ではなくて、何か特別な理由があると気づいたのだろう。
しかし、桜は言葉を発する事が出来なかった。ただ静かに一つ頷く事しか出来ない。本来であれば、何か言葉を返すべきなのだろうけれど。
「……出ようか?」
そんな桜を心配した紅咲は、そっと左腕を掴んでくれた。
手を引いて外まで連れ出してくれるのだろう。しかし、桜はその腕を右手で掴み返して。
「全部……観ないと。ううん、結末を知らないといけない」
迷うことなく、桜は自らの意思を伝える。
いつ死ぬか分からない状況で、彼らがどんな答えを出すのか知りたいと思ったのだ。作られた話である事は分かっている。それでも知りたいと思ったのだ。
「分かったよ。でも、無理はしないでね」
すると、紅咲は桜の腕を掴んでいた力を緩めて囁いた。
そんな彼に頷くだけで返事をした桜は、彼の腕を止めるために伸ばした手を元の位置に戻して映画の世界へと戻っていく。
そんな時に。
桜の左手に置かれたのは温かくて、大きな手の平だった。触れた手から伝わるのは確かな優しさで、まるで何かに挑もうとしている桜に力を貸してくれるようで心強い。
その力を全て瞳に込めた桜はヒロインの少女になったつもりで流れる映像を追っていく。
映画はすでに後半へと移行していて、衰弱した少女は穢れを知らないようなベッドの上で上体を起こし、肩を抱いて泣いていた。そんな彼女を主人公である彼が支えていくのだろう。彼女の天命が訪れる、その時まで。
桜はそうであるに違いないと思っていた。それこそが愛だと思うから。ここで離れてしまって、何が「好き」だとか「愛」だというのか。違うというのなら、どの口がそんな言葉を発するというのだろう。例え作り物の世界であっても、いや、作り物の世界だからこそ変わらぬ愛を貫いて欲しいと桜は思う。
そう思っていたのだが、この映画は違った。
衰弱していく自分と一緒にいては彼の迷惑になると思ったヒロインは、彼へと別れを告げてしまったのだ。それだけでなく、主人公の彼はそれを了承してしまう。ヒロインの彼女を想って、身を引いてしまったのだ。
その後はスクリーンが暗転してエンディングの曲が流れ、最後のエピローグはヒロインのお墓に花束を置いて終わってしまった。こんなあっさりとした表現になってしまったのは、桜がこのお話を受け止めきれなかったからだ。正直な事を言えば、内容の全てを観ていない人に伝えて欲しいと頼まれたとしたら、伝えきれる自信がない。たった今観た映画だというのに。
それほどまでに桜にとっては衝撃だったのだ。
しかし、衝撃はそれだけでなくて。
「ただくっつくよりは『現実的』よねぇ」
「まあ、リアルな世界は……こっちかもな。むしろ、最後のエピローグはやり過ぎだろ」
映画を観終わったカップルの苦笑交じりの言葉が桜の胸へと突き刺さる。
これが現実だというのだろうか。ならば、桜はどうなるというのだろう。どれだけ想っても、別れを告げなければいけないというのか。そして、彼女は自身の側から離れてしまうのだろうか。桜の一生は散って終わり。それはあまりにも悲し過ぎる。
こんな所で泣いてしまうのは恥ずかしいけれど瞳から零れ落ちる涙は止まらなかった。涙が零れる度に浮かぶのは桜だけの世話師。いつも桜を想ってくれる、この胸を熱くさせてくれる人だった。
その確かな熱は心の中だけでは抑えきれなくて――
「……会いたい。ずっと、側にいたいよ」
いつの間にか外へと漏れ出ていた。
家族にもステラにも秘密にしていた事だと言うのに。皆を心配させないために黙っていなければいけない事だというのに。
「桜ちゃん……もしかして、何か病気を?」
さすがにここまで変化があれば分かってしまったのだろう。紅咲は震えた声を出した。普段から武道で心を鍛えている彼も、病気で死ぬヒロインを観てからでは戸惑ってしまうのも無理はないのかもしれない。
「……私の母様は心臓が悪くて。こういうのは遺伝するんだ」
もはや隠す事が出来ないと感じた桜は内に隠していた事を彼へと伝える。
どこか曖昧な言葉ではあるが、ここまで言えば後は予想出来るだろう。そして、桜が望む事も分かってくれる筈だ。
「ステラさんは……この事を?」
やはりと言うべきか。紅咲は桜がずっと側にいたいと願う人の名前を述べた。
しかし、その言葉に対して桜は首を振る。運動をすると息切れする事も、胸が圧迫されるような感覚についても教えてはいなかった。それだけでなく、桜は免疫力が他者よりも低いらしく、時折体調を崩す事も多い。
後者はさすがに隠しきれなかったが、前者については病気については絶対に嘘は言わないという約束を結び、説明した事でステラは納得してくれた。だが、母親が心臓を患って亡くなったという事だけは頭の片隅に留めている事だろう。
これが想い人に隠している、たった一つの秘密。いつかは話そうと思っているけれど、今は話せないでいる唯一の秘め事だった。そんな桜は間違っているのかもしれない。
けれども、振り向いて欲しい人に、この秘密を教えるのは怖かった。
しかし、紅咲は考え方が違うようで――
「行こう、桜ちゃん」
今度こそは桜の腕を取って、強く引いた。
桜の細い体は普段から運動によって鍛えられている彼によって、安々と引っ張りあげられる。その後は足をもつれさせながらも歩くしか他に方法はなかった。
人が一人ぎりぎりで通れる席が並べられた通路を、手を引かれながら歩くのは思ったよりも動きにくいのだが、今はそれよりも他に重要な事があって。
「どうするの?」
桜は声を震わせながら前方を進む彼へと問う。
しかし、紅咲が何をしようとしているのかは何となく分かっている。隠し事をせずにステラと向き合えと言いたいのだろう。
その予想は正しくて――
「桜ちゃんの口から全てを伝えるんだ」
手を引く紅咲ははっきりと目的を述べた。
抗おうにも日頃から運動をしている彼に叶う訳はない。抵抗は無意味だろう。
しかし、それでも桜は声を張り上げる。
「嫌だ。ステラがいなくなるのは――嫌!」
正確に言えば悲鳴だったのかもしれない。
映画の影響なのか、どうしても去って行くステラの背中が見えてしまう。もしかしたら、桜が望むようにずっと側にいてくれるかもしれないのに。
そう。
世話師ではなくて、桜を想ってくれる一人の人として。ずっと夢見た光景が手に入るかもしれないというのに。それでも、今の桜はその光景を信じる事が出来なかった。
ステラは桜の事を想ってくれる。それでも、あれは恋愛感情ではない。自身とは違った気持ちなのだ。だから、今は全部を伝えてはいけない。
それなのに、前を行く紅咲は止まらなくて。気づいた時には、場内の外へと向かう階段を降りていた。
――一段、二段。
徐々に決断の時が近づいてくる。自身で決めたタイミングではなくて、彼の意志が決めてしまったのだ。はっきり言えば、それは嫌だと思う。こんな大切な事はステラの気持ちを確かに感じた時にしたいのだから。
そう思っている事を知っている筈なのに彼は止まる事はない。もしかすれば、これが男性というものなのだろうか。他者の心を無視してまで進もうとする身勝手な、傲慢と言ってもいいような感情を持った生き物。
彼の場合はその行動の背景には桜を想って、という事もあるだろう。
だが、こんな身勝手な理由で決められたくはないと思った。それは彼に対して、いや、人に対して初めて抱いた確かな敵意だった。桜とて他人を不快に思う事はある。しかし、ここまではっきりと敵意を覚えた事はないと思う。
怒りは緑色の瞳へと伝わって、彼の背中を射抜く様に注がれる。
その瞬間。
彼はその視線を受け止めて――
「後で……どれだけでも文句は聞くよ。ただ、桜ちゃんはステラさんを信じてあげないと。そうしないと進めないよ」
言葉を届けてくれた。
せっかくの好意を無下にしようとしているのに、彼はまだ桜の事を考えてくれているらしい。どこまでもお人好しで、そして時には大胆。
それが双海紅咲という人らしい。
(……男性という狭い範囲で見てはいけないんだ)
先ほど全ての男性に対して敵意を覚えてしまったが、それは間違いだったらしい。まだ心の中ではおぼろげな形でしかないけれど、何となく分かるような気がする。
だからこそ、桜は信じる事にした。
彼が言う様に自身の世話師を信じてみようと思ったのだ。映画はバッドエンドだった。しかし、桜が進む道はハッピーエンドにしたい。
誰かに頼る訳でもなく、桜自身の力で。この小さな体に詰まった想いの全てをステラに伝えれば、絶対に分かってくれると思うから。
「信じるよ、二人を」
迷いを振り切った桜は友人の背に言葉を届ける。
しかし、彼は特に何かを言う事もなく、黙って手を引いてくれた。




