第二話 (七)
映画館を出て、市の南側へ。
つまりはショッピングモールに戻る道筋にあるのは一つの喫茶店だった。しかし、喫茶店とは言っても雰囲気は独特だ。
まず店内に入るには岩造りの階段を十二段降りなければならず、その階段を照らすのは仄かなランプの明りだけ。どこか地下に作られた酒場に続くような道に見えてしまうのは気のせいではないだろう。
それもその筈で。喫茶店フェレアスは元々は酒場なのである。と言っても男が下品な笑い声を上げて騒ぐような店ではなくて、年配のマスターが静かに酒を出す店だった。
しかし、今はこの無機質な街と酒というものが噛み合わなくなったらしく、静かにコーヒーを飲む店へと変わってしまった。なぜそこまでこの店について詳しいかと言えば、それはステラがこの店に厄介になっていた事があるからに他ならない。
だが、今回の出来事とステラの過去は関係ないのも事実。二人には特に話す必要はないだろう。そう結論付けたステラは静かに薄暗い階段を降りていく。
すると。
「ステラ。私達未成年だよ?」
やはり酒場と勘違いした美咲が背中へと問いを投げてきた。
入口には喫茶店フェレアスと書いてあるのだが、これは全面的に改装が必要なのかもしれない。
しかし、ずっと勘違いされたままでは問題があるので。
「ここは喫茶店だ。だが、中身も酒場だから驚くかもな」
美咲の言葉を振り向かずに訂正して、黙々と進んでいく。
そんなステラの背中には、もう言葉は返ってこなかった。納得したのか、内装を見て判断する事にしたのか。彼女がどんな結論に至ったのかは分からないが、静かになった事はいい事だ。
とりあえずは本日何度目かの安堵の息を吐いたステラは眼前に迫った、年数を感じさせる木製のドアを内側に引いて開け放つ。
その瞬間にステラへと届いたのは、香ばしい焙煎の香り。先ほど飲んでいた紙コップのコーヒーとはまるで違う、その香りだけで満足出来る程に洗練された本格的な香りだった。
「見た目は酒場なのに……不思議」
美咲もどうやら香りだけでここがどんな場所か判断出来たらしく、独り言を呟くように述べた。
そんな彼女に応えたのは、ステラでも文でもなくて。
「やはり酒場に見えるか?」
渋みを感じさせる男性の声だった。
その声に導かれるように瞳を向けると。
ドアと同じ木目調の床を五歩ほど進んだ先にあるカウンターの向かい側に一人の男性が立っていた。色素が薄い金色の髪を短く伸ばした筋肉質な男で、この喫茶店のマスターである。マスターと今でも呼んでしまうのは昔の名残のためだ。
今では店長と呼ぶのが適しているのだろうけれど。昔の癖というのは抜けないものだ。
「マスター。コーヒーを三つ」
急に声を掛けられて、返答出来ない美咲に代わってステラは床を軋ませながら進むと共に注文をする。さすがに話だけをして帰るのはマナー違反だと思ったからだ。
それにここのコーヒーの味を二人にも知って欲しい、という気持ちも少なくともあるのは否定しない。
「分かった。少し待て」
すると、マスターは淡々と言葉を返すと。
さっそく仕事へと取り掛かった。無駄な事は言わず必要な事だけを言うのが、この男の個性と言っても過言ではない。人と一歩距離を取りたいと思っているステラにとってはありがたいと思えてしまう人物だ。だからこそ、この場を選んだというのも少なからずはあるだろう。
しかし、二人にとっては未知の世界であるらしく。
バケツの中にランプを入れるという、個性的と言うのか独創的な明りに照らされながら入口で固まっていた。
「二人とも固まってないで」
そんな彼女達を安心させるために、ステラは振り向くと共に手招き。
店内に入って一言二言マスターと話せば、さすがに慣れるだろう。そんなステラの気持ちを知ってか、知らずか。
彼女達は顔を見合わせてから、先頭を進んだステラに続く様に店内へと足を踏み入れていく。そんな彼女達を瞳に収めたステラは我先にとカウンター席に設けられた回転椅子に腰掛ける。
すると、マスターは――
「何かあったか?」
三人分のマグカップを用意しながら問うた。
彼も彼なりに突然顔を出したステラの事に気にしてくれているらしい。それは素直に嬉しく思うが、それを問いたいのはむしろステラの方だ。問いを向けるのは、当然ようやく席へと辿り着いた一人の少女に対してなのだけど。
そう思ったステラはマスターの問いを有効に活用する事を選ぶ。無駄に時間をかければ映画が終わってしまう可能性があるからだ。
「ちょっと……友人がな」
しかし、文からすると見知らぬ男であるためか。自然と言い方は遠回してとなってしまった。それでも、当人に対して話すか、話さないかの選択肢を与える事が出来たのは良かったとも思う。
(さて、どちらを選ぶのか)
話さないという選択を選んだとしたら、この場を去るつもりで。
ステラは静かに言葉を待つ。同時にいつかは話してくれると信じたいとは思うのだけれど。
しかし、その懸念は他ならぬ文の言葉によって霧散する。
「さっきはごめんなさい。二人は……私の悪い癖を知っていますよね? あれが原因で中学生の時に友人を一人失っているんです」
彼女はステラと美咲を信じて、全てを話す道を選んでくれたのだ。
だが、彼女の黒い瞳はガラス細工のように色を失っていて。まるで人形が話をしているような不気味さがあった。これはもしかすれば踏み入ってはいけない領域に入ってしまったような気がするが、今さら言っても仕方がない事だろう。
美咲も今は黙って話を聞くべきだと判断したらしく、口を引き結んで潤んだ視線を右側へと、つまりは文の横顔へと向けていた。
その視線を左手側に確認したステラは一度頷いて、文を促す。
すると、彼女は続けてもいいと分かったらしく。
「最初は何と言う事もない……ごく一般的な友人だったと思います。でも、彼が私以外の人に好意を持ってしまった事に気づいた時に全てが変わってしまったんです。今までは彼が笑う度に、小説のヒロインであるかのような夢心地な世界が広がりました。でも……でも、彼が私以外の人を見た時は……彼が私を裏切っているように見えてしまって。そんな妄想がずっと……毎日浮かんで気が狂いそうになってしまいました。それは今も治ってなくて誰かが、ううん……友人が私を拒むと反射的にああなってしまうんです。こんなのおかしいですよね? 不気味ですよね? ねぇ……何か言ってよ、美咲」
今まで胸の内に溜めていた言葉を吐き出した。
中学の時とだけ述べたために何年溜めていた感情なのかは分からないが、一人の人がここまで豹変するという事はただ事ではない。もし、ここでステラと美咲が見捨ててしまうような事があれば、彼女は一生立ち直れないのではないだろうか。それは憶測でしかないが、そう思わせる程の脅迫めいた恐怖をステラは感じた。
だが、ステラは口を挟まない。いや、正確に言うならば今は言葉を掛けてはいけないと思ったのだ。彼女は美咲の言葉を待っているのだから。
文は彼の代わりに美咲を求めているのか、それとも美咲が彼女の心を動かすに足る人物であるのか。それは分からないが、現状では美咲の言葉が文の心に光を燈す事が出来る唯一の救いとなるだろう。
それが分かっているのか――
「文の妄想癖が酷いのは……知ってる。でも、それも文でしょう?」
美咲はいつもと変わらぬ調子で言葉を返した。
正確に言うならば、ようやく美咲が本調子に戻ったのかもしれない。おそらく友人を助けるために沈んだ心を強引に引き上げたのだろう。ただ友人が再び笑顔を取り戻すためだけに。
人生を面白おかしく生きたいと望み。それでも心根は真っ直ぐな美咲らしい対応だと言えるだろう。聞く人が聞けばどこまでも無遠慮な言葉ではあるのだけど、そんな言葉を聞き慣れた文の心にはすんなりと沁みたようで。
「……ごめん」
文は一言謝罪しただけで、その身を美咲へと預ける。
たった一言の短い言葉。
だが、この短い言葉には二人にしか分からないような数多の想いが込められているのだろう。それが分からないステラは少々寂しいと思ってしまう。
距離を取りながらも繋がりたいと願ってしまうのは、ステラもまた人の子だからなのかもしれない。
「もう少し荒れるかと思ったのだが」
そんなステラの眼前に突き出されたのは、湯気が立ち込めるマグカップ。
そう言えばコーヒーを注文した事を忘れていた。それは美咲も同じなのか、文を気にしながらもぎこちなく微笑んだ。そして、周囲を騒がせた文は先ほどまでの荒れようは冗談だったのではないかと思う程に健やかな笑顔を浮かべていた。今は夢心地な気分を満喫している事だろう。
当然、彼女の世界の中で。
「もう少し深く突っ込むのは……二人の仲がさらに深まった時だと思うが」
そんな二人を横目で見つめたステラはマグカップを受け取ると共に、一言。
大人の勘というのか、女性の勘が正しいのであれば、これから彼女達は苦労すると思う。それはお嬢様に好意を寄せられているステラにはよく分かる問題だった。
やたらと美咲の恋を応援していると思ったら、実は自身の恋のためだったという訳だ。ステラはそれに巻き込まれて、周囲で騒がれてしまったという事である。
しかし、不思議と不快な気持ちはしなかった。それは友をより深く知る事が出来たからなのかもしれない。
そんな事を思っていると。
ポケットに収まっている情報端末が微かに振動した。この振動は映画の終了時間十分前に振動するように予めセットしていたものだろう。
「そろそろ終わるか。何か進展があるといいのだが」
そう独語したステラは、舌を焼きそうな程に熱いコーヒーを口へと運ぶ。
マスターのコーヒーをゆっくりと味わいたいとは思うが、お嬢様の出迎えの方が優先事項は高いのは言うまでもない。
しかし、そんなステラを妨害する声が左側から届く。
「桜ちゃんは何の映画を観てるの?」
ようやく本調子に戻りつつある美咲が興味本位に質問を投げたのだ。
そう言えば文の事で忙しくて、お嬢様の事について何も話していない事に今さらながらに気づくステラ。
さすがに黙っている理由はないと感じたステラは――
「二人には恋愛映画を。タイトルは『ただ君を想う』だ」
何事もないように言葉を返す。
――だが。
言葉を受け取った美咲と、今の今まで夢の世界にいた文ですら瞳を見開いた。そんなに注目されるような映画だったかと内心でステラは首を傾げる。それとも何か彼女達でしか知り得ない何かがあるのだろうか。
そんな事を考えていると。
「ステラさん、急いで下さい。今頃……桜ちゃんは泣いているかもしれません」
文が美咲から体を離すと共に強い言葉で言い放った。
しかし、ステラは言葉の意味が分からない。なぜ、桜が泣くというのだろう。
確かにその映画のラストは考えようによっては、バッドエンドにも近い悲恋だ。だが、恋愛の一つの形を知るには間違っていないように思うのだが。
そう思ったステラの腰はなかなか動かない。むしろ動くべき理由が見つからないのだ。
そんなステラを見かねた美咲は――
「早く! 今は桜ちゃんの事を考えてあげて」
声を張り上げると共に立ち上がった。
これ以上ゆっくりしていると言うならば強引に立たせるつもりなのだろう。
(……次から次へと)
本当に騒がしい者達だと思う。
どうして相手の事を大切に想って動けるというのに、こうも言葉足らずなのか。先ほどから振り回されてばかりのステラは少々ストレスが溜まりつつあるが、素直に立ち上がる事にする。
それだけでなく。
「桜がどうしたんだ?」
自らが動くべき理由を簡潔に問う。
どうせ動くならば、この胸が熱くなる理由が欲しいと思ったのだ。お嬢様が関わっている事ならば常に全力で駆け抜けるつもりであるステラにとっては、理由だけでも知れればそれで十分だ。
しかし、少女二人はお互いの顔を見合わせてから口を固く閉ざす。そんなにも言いにくい事をお嬢様は隠しているとでもいうのか。
だが、それはおかしい。ステラと桜は日々の些細な事までは共有していないが、重要な事柄についてはお互いに話すようにしている。だというのに、彼女達が知っていてステラが知らないという事があるのだろうか。
考えても分からないステラは、少女二人の沈黙についには耐えられなくて。
「教えてくれ」
短く簡潔な言葉をもう一度届ける。
しかし、今度は有無を言わせない圧力を茶色の瞳に強く込めると共に。急がなければならないらしいが、今は目の前の会話の方が気になってしまうのは言うまでもなかった。
そんなステラの気持ちが伝わったのか。
「桜ちゃんは……心臓が悪いんです。それをずっとステラさんに隠しています。病気については絶対に嘘は言わないと……そう約束してまで。あの子はステラさんが離れてしまう事が嫌なんです。ただ、それだけなんです」
文が正面を見たまま淡々と語った。
そんな彼女の横顔は全身を引き裂かれたような痛々しい表情をしていた。おそらく友人の秘密を語ってしまった事に対して罪悪感を覚えているのだろう。
ステラが聞き出した事だったとしても。それはステラが同じ立場になったと思えば、よく分かる事だった。
だからこそ、ステラは言葉を慎重に選んでいく。彼女がこれ以上傷つかないためにも。
「この件は……私がお前達二人から聞き出した。そして、何も問題はない。私が直接、桜と話をつけてくる。何があろうとも絶対に側から離れないと」
必要な言葉を届けると共に振り返る。
向かうのは、当然今は泣いているだろう一人の少女の元だ。そんなステラの頭の中には本日の目的も、この場にいる二人の友人の事もない。
ただステラが消える事に怯えるお嬢様の事で一杯だった。そんな彼女に何があっても「側にいる」のだと伝えたい。むしろ桜がいなくなってしまう事が「寂しい」と伝えてあげたい。
言葉だけではなくて、嘘は言わないこの胸の鼓動で伝えたい。強く、強く抱きしめる事で伝えてあげたいのだ。もはや言葉では言い表せない想いを両足に伝えたステラは強く地面を蹴りつけた。




