第7話 父は娘を選ぶ
魔王城の巨大な黒曜石の城門前。
灰色の空から吹き付ける冷たい風の中、人間領から送り込まれた教会回収隊の兵士たちは、誰一人としてまともに動けずにいた。
彼らの腰にある長剣は、鞘の中で金属が癒着したかのように完全に封じられている。私が足元の石畳を通じて魔力を流し込み、武器を一時的に固定したからだ。流血も、殺傷もない。ただ、彼らから暴力という選択肢だけを奪い取った。
「……化け物め」
回収隊の隊長であるデリクが、抜けない剣の柄から手を離し、忌々しげに私を睨みつけた。
彼の視線はすぐに私から外れ、城門の内側で柱に手をつき、どうにか立っている男へと向けられた。
「クラウス団長。いや、元騎士団長クラウス・エルデン卿。どうか目を覚ましてください」
デリクの声には、かつての上官に対する微かな敬意と、教会の命令から外れた者への明確な非難が入り混じっていた。
クラウスは無言のまま、城門の柱の陰にフィアを庇うようにして立っている。足元には、エルナが用意した移動椅子が残されていた。先程、デリクが読み上げた教会の定型命令によってフィアの『勇者刻印』が強制起動し、彼女はひどい痛みに耐えて息を乱していた。
「あなたは魔王の洗脳を受けているのだ。我々の任務は、囚われた第七代勇者の救出と、洗脳されたあなたの処分です」
デリクは一歩前に出た。
「ですが、私はかつてのあなたに恩がある。今ここで娘さんを引き渡し、我々とともに王都へ戻るなら、私の権限であなたの『処分』は保留とするよう上層部へ掛け合います。……そして何より」
デリクは泥に汚れた革の鞄から、丸められた羊皮紙の命令書を取り出した。
「あなたの故郷の村は今、教会の地方神官と国境警備隊によって包囲されています。村から裏切り者を出したという罪は重い。しかし、第七代勇者を無事に奪還できれば、村への武力制裁と勇者税の追加徴収は免除される。そういう手筈になっています」
風が止んだ。
フィアの小さな肩がビクッと跳ねるのが見えた。彼女の刻印に仕込まれた『副契約』――逃げれば父と村が罰せられるという脅しは、幻ではなく、教会の実力行使を伴う冷酷な事実だったのだ。
クラウスの背中が、石像のように硬直した。
デリクの提示した取引は、クラウスの急所を正確に突いていた。
彼は元騎士団長だ。国家の秩序を守る側の人間であり、自身の部下であったデリクたちを無意味に傷つけることは望んでいない。そして何より、自分たちの逃亡のせいで、何の罪もない故郷の村人たちが理不尽な制裁を受けることなど、決して許容できないはずだ。
デリクは、クラウスを元の「正しい秩序」の枠組みへ引き戻そうと必死だった。教会の命令を遂行できなければ、デリク自身もまた処分される立場にある。彼もまた、見えない恐怖に背中を押されているのだ。
私は口を出さなかった。
クラウスの手を引いて無理やり城へ引き入れることも、デリクを魔力で吹き飛ばすことも容易い。だが、それはクラウスから決断を奪う行為だ。彼がここで何を選ぶか。それを見届けた後でなければ、私は本当の意味で彼に背中を預けることはできない。
クラウスはゆっくりと顔を上げた。
その視線は、まず柱の陰で痛みに耐えながら自分を見上げる、十一歳の娘へ向けられた。自分が見捨てられるのではないかと、切実な恐怖を抱えた瞳。
彼はフィアへ微かに頷き、それから、かつての部下であるデリクを真っ直ぐに見据えた。
「デリク。私はお前たちに、剣は弱き者を守るために振るえと教えたはずだ」
低く、しかしよく通る声が響いた。
「村の民を人質に取り、父親に娘の命を差し出させる。それが、白陽の騎士が守るべき正義か」
「教会の決定は絶対です! 大義のためには、少数の犠牲は……」
「犠牲になるのが子どもであるなら、そんな大義は狂っている」
クラウスの言葉に迷いはなかった。村への責任、国への忠誠、元部下への情。それらすべてを背負った上で、彼は今、目の前にいるたった一人の娘を守ることを選んだ。
「アベル、拘束しろ!」
デリクが振り返り、若い兵へ命じた。
アベルは槍を握ったまま動かなかった。視線は、父の外套を掴んで息を乱すフィアに向いている。
「……その命令を読んだ途端、あの子は倒れました」
「魔王の術だ。命令に従え!」
「俺には、そうは見えません」
アベルは槍を石畳へ置いた。ほかの兵は従わなかったが、すぐに襲いかかる者もいなかった。
私は静かに歩み寄り、足元に落ちていたクラウスの剣を拾い上げた。
柄を彼の方へ向け、静かに差し出す。
「あなたの背中と、フィアの現在位置は私が守ります」
「……感謝する、ネレイア殿」
クラウスは私の目を見て剣を受け取った。最初の一歩で顔が歪んだが、城門を越え、デリクの前へと進み出た。
「クラウス団長……っ! ならば、武力をもって両名を拘束する!」
デリクが叫んだ瞬間、彼の外套の裏から、封印を免れていた短い刃が抜き放たれた。教会の暗殺部隊が好んで使う、殺傷力の高い毒刃だ。
デリクが低く沈み込み、クラウスの喉元へ向けて一気に距離を詰める。
だが、クラウスは微動だにしなかった。
刃が届く直前、クラウスは最小限の動きで半身を引き、デリクの突きを躱した。同時に、手にした剣の「柄」を、デリクの右腕の関節へ正確に打ち込む。
「ぐっ……!」
鈍い音とともに、デリクの手から短剣が滑り落ちた。
クラウスは返す動きでデリクの肘を取り、その体勢を崩した。かつての部下の踏み込みを知っていたからこそできた、ただ一度の反撃だった。
デリクの身体が石畳へ落ちる。クラウスは刃を使わず、背へ腕を回して押さえ込んだ。その直後、腹の包帯へ新しい血が滲み、彼の膝も地面についた。私は倒れないよう背を支えたが、拘束を解く手助けはしなかった。
「離せっ……! 村がどうなってもいいのか! あんたが娘を渡さなければ、あの村は……!」
石畳に頬を押し付けられながら、デリクが血を吐くように叫ぶ。
「村を見捨てるつもりはない。だが、フィアは渡さない」
クラウスは息を切らしながら、デリクの腕を背中に回して拘束を終えた。
戦闘の終結を確認し、私はフィアのそばへ寄った。
「終わりましたよ。もう大丈夫です」
フィアは痛みの引いた胸元を押さえながら、ゆっくりと城門をくぐり、父親のもとへ駆け寄った。
「お父さん……」
クラウスは膝をつき、娘の小さな肩を両手でしっかりと包み込んだ。
「すまない、フィア。今度は、お前に黙って決めない」
フィアは父の外套の袖をぎゅっと握りしめ、自分が見捨てられなかった事実を、その温もりとともに確かめるように小さく頷いた。
「ネレイア殿。これを」
デリクを縛り上げた後、クラウスは石畳へ膝をついたまま、拾い上げた羊皮紙を私へ差し出した。先程までデリクが持っていた、教会の命令書だ。
私はそれを受け取り、蜜蝋の封を切って中を開いた。
「……これは、ただの第七代勇者の奪還命令ではありませんね」
文面に素早く目を通し、私は小さく息を吐いた。
そこに記されていたのは、私たちが想像していたよりもはるかに大規模で、忌まわしい計画の全容だった。
「どういうことだ」
「教会は、次の大祭に向けて『勇者候補』を一斉に選定する準備を進めています」
私は契約の糸を見るように、命令書の文字を冷たく見据えた。
「その数、百名。彼らは百人の子どもたちを、王都へ集めようとしています」
クラウスの顔色が変わった。一人の娘の命を救うという個人の戦いが、国家規模の制度という巨大な悪意に直面した瞬間だった。
しかし、クラウスの瞳に絶望はない。彼は傍らの私を見上げ、静かに、だが確かな意志を持って言った。
「……行こう、ネレイア殿。次の子どもを、同じ目に遭わせるわけにはいかない」
私は頷いた。
今、私とクラウスの間に、初めて実戦的で強固な信頼が結ばれた。




