第5話 魔王城の朝ごはん
勇者刻印の副契約を一時停止させてから、一夜が明けた。
魔王城の居住区画にある小食堂には、朝日が差し込んでいる。医療区画で絶対安静を命じられているクラウスを残し、フィアは私や何人かの元勇者たちと共に朝食の席についていた。
卓上に並べられているのは、厨房で焼き上げられたばかりの蜂蜜パンと、温かい豆のスープだ。
フィアは自分の皿に置かれた丸いパンを両手で持ち、真ん中から二つに割った。そして、周囲の大人たちの視線が自分に向いていないか素早く確認すると、片方の半分を、着ている大きな白い外套の内ポケットへと滑り込ませた。
ごく自然な、手慣れた動作だった。
私は正面の席でスープを飲みながら、その一連の動きを見ていた。
彼女は、この城で次の食事が確実に出るという保証を信じ切れていない。役に立たなければ罰せられ、見捨てられるという教会の教えは、たった一晩の安全や温かい寝床で消えるようなものではない。彼女にとって、隠した半分のパンは、城を追い出された時のための命綱なのだ。
私は彼女を咎めず、隠した食料を取り上げることもなかった。善意や安全を言葉で強弁し、今すぐ信じさせようと急ぐ必要はない。
私は手元にあった清潔な包み紙を一枚、テーブルの上を滑らせてフィアの皿の横へ置いた。
「次の食事は正午です。もし残しておくのなら、ポケットが汚れないようにそれで包んでおきなさい」
フィアはビクッと肩を震わせ、自分の胸元を隠すように両腕を交差させた。しかし、私が怒っていないと分かると、戸惑いながらも包み紙を手に取り、小さく頷いた。
その時だった。
ガァン――と、城の時計塔から、朝の就業を告げる鐘の音が響き渡った。
フィアの動きが、完全に凍りついた。
スプーンを持った手は空中で止まり、見開かれた瞳は焦点を失っている。浅く、ひどく不規則な呼吸が始まった。
魔王城の鐘は、ただの時刻の知らせに過ぎない。しかし、彼女の耳には別の音として響いているのだろう。教会の礼拝の定型祈祷を告げる音か、あるいは、候補者の中から死地へ送られる勇者を選定した、あの鐘の音か。
彼女自身も、自分がなぜこれほど怯えているのか、言葉で説明できないはずだ。ただ身体だけが、過去の恐怖に縛り付けられて硬直している。冷めかけたスープの表面に、かすかな波紋が立っていた。
「……おい」
不意に、隣の席で立ち上がった影があった。十七歳の第六代勇者、ノエルだ。
彼は舌打ちを一つ落とすと、フィアの前へ回り込み、自分の上着の袖を差し出した。
「来い」
「あっ……」
フィアが袖を掴むのを待って、ノエルは彼女を食堂の外へ連れ出した。私も席を立ち、数歩遅れて彼らの後を追う。
ノエルが向かったのは、食堂のすぐ外にある、厚い壁に囲まれた防音性の高い廊下の窪みだった。鐘の音はここではほとんど響かない。
彼はフィアを壁際に座らせると、自分が羽織っていた予備の上着を脱ぎ、彼女の頭からバサリと被せた。
「鐘が鳴り止むまで、そこから動くな」
ノエルはそれだけを言い捨て、背を向けて壁に寄りかかった。
彼は自分と似たような年齢で死地へ送られてきたこの少女を、放っておくことができない。だが、彼自身もまた幼い頃から戦いと怒りの中に身を置いてきたため、泣いている子どもを言葉で慰め、安心させるような優しい手立てを知らなかった。
布にくるまれたフィアの震えが、少しずつ収まっていく。私は口を挟まず、その様子を静かに見守った。
やがて鐘の音が完全に止むと、フィアは上着の隙間から顔を出し、外套のポケットをごそごそと探り始めた。
取り出したのは、小さな紙片と、先を削った短い炭筆だった。
彼女は膝の上に紙を置き、迷いのない手つきで黒い線を引いていく。
覗き込むと、それはこの城の内部構造を描いた地図だった。食堂から、クラウスのいる医療区画までの道順だ。
「へえ……お前、よく見てるな」
ノエルが感心したように低い声を漏らした。
彼女の描く地図は、単なる通路のつながりではない。どこに採光用の窓があるか、階段は何段でどれくらいの高低差があるか、どの扉が施錠されていて通れないか。極めて正確な空間把握能力が、簡潔な記号となって紙の上に展開されていた。
だが、これは決して好奇心や探検の楽しみから描かれたものではない。逃げ道を見失わないため、いざという時に自分と父親が生き延びる退路を確保するための、生存本能に基づく記録だった。
「……ここが、おかしいですね」
私は地図の一箇所を指差した。
「食堂を出て最初の角を右に曲がった後、二つ目の曲がり角と、そこにあるはずの柱が描かれていません。通路が不自然に短く直結しています」
フィアはハッとして自分の描いた線を見直した。
「ほんとだ……わたし、どうして……」
「鐘が鳴ったからです」
私は静かに告げた。
「鐘が鳴ったのは、この辺りを歩いていた時でしょう。強く怖がった時のことが、うまく思い出せないことはあります」
フィアは自分の指先と、不完全な地図を見つめ、小さく唇を噛んだ。
「行きましょう。答え合わせをしながら、お父さんのところへ戻ります」
医療区画への短い道のりの中で、私は城の様々な場所を案内した。
中庭に面した工房では、バルトの指導のもとで亜人の青年たちが農具の修理を行っている。その横の大きな部屋からは、城の教師に文字を習う、魔族と人間の子どもたちの朗読の声が聞こえてきた。廊下ですれ違う夜の精霊たちは、両手いっぱいに洗濯物を抱えて忙しなく歩き回っている。
私はこの魔王城を、誰もが幸福に暮らす理想郷として説明するつもりはなかった。ここは単に、生活を回す人々の具体的な労働と、明日も続く日常が存在している場所に過ぎない。
だが、殺戮と略奪だけが支配すると教えられてきたフィアの目には、その「当たり前の生活」の風景が、確かな安全の証拠として映っているはずだった。
医療区画の扉を開けると、清潔なシーツの敷かれた寝台の上で、クラウスが苛立たしげに身じろぎをしていた。
「ネレイア殿! フィアが目を離した隙にいなくなって……っ」
彼は痛む腹部を押さえながら、無茶な体勢で起き上がろうとしていたが、私の背後からひょっこりと顔を出した娘を見て、言葉を詰まらせた。
「お父さん」
「フィア……お前、一人で城の中を歩き回ったのか? ここはまだ完全に安全と決まったわけじゃ……」
クラウスは反射的に、かつての騎士団長として、あるいは父親として、娘の無謀な行動を管理し、叱責しようとした。
だが、彼はすぐに口を閉ざした。
フィアの手には、自分で描いた正確な地図が握られている。彼女はただ保護されるだけの無力な存在ではなく、自分の足でこの未知の城を歩き、迷うことなく父親の元へと戻ってきたのだ。
クラウスは息を吐き、責めるような口調を修正した。
「……いや。よく自分で道を覚えて、戻ってきたな。無事でよかった」
その言葉に、フィアは安心したように顔をほころばせた。
「うん。あのね、お昼のご飯は正午なんだって。だから、わたし……」
フィアは私の顔を見上げ、外套のポケットを少しだけ握りしめた。中にはまだ、隠されたままの蜂蜜パンが入っている。
「わたし、お昼になったら、また食堂に行くよ」
パンを差し出すことはしなかった。完全に私を信じたわけではない。それでも、彼女は次の食事の約束を自らの口でした。それは、彼女がこの城の明日を、ほんの少しだけ信じ始めた証だった。
「ネレイア様」
その時、開け放たれたままの扉の向こうに、境界警備を担う夜の精霊、ラウラが姿を見せた。彼女の表情は硬く、ただならぬ緊張を帯びていた。
「外縁結界で待機していた人間の部隊――教会の回収隊が、動きました。彼らは城門の前まで陣を進め、正式な『勇者救出のための交渉』を要求しています」
クラウスの顔が険しくなる。
「救出、だと……。私を殺し損ねておいて、よくもそんな名目が立てられるものだ」
「少なくとも、救出という言葉をそのまま信じることはできません」
私はフィアの頭に置かれていたノエルの上着を軽く直し、クラウスに向き直った。
「あなたはここで休んでいなさい。私たちが話を聞きます」
フィアが隠した半分のパンを、自分の意思で手放せるようになるまで。彼女が自分で選んだ選択を、理不尽な暴力で奪わせるわけにはいかない。
私は城門へと続く冷たい廊下へ向けて、静かに歩みを進めた。




