第4話 勇者をやめてもいい
魔王城の食堂には、重苦しい静寂が満ちていた。
歴代の勇者たちが生きてそれぞれの生活を営んでいるという事実は、クラウスとフィアにとって、これまでの世界観を根底から覆すものだった。しかし、その驚愕が冷めやらぬうちに、私たちは最も残酷な現実と向き合わなければならなかった。
フィアの鎖骨の下に刻まれた『勇者刻印』。そこからは、過去の六人とは明らかに異なる、禍々しく太い魔力の糸が伸びていた。
私には、いま動いている契約の接続と魔力の流れを断片的に捉える『契約視』がある。赤い糸は夜境の空気を縫い、人間領の方角へ伸びたところで私の視界から消えていた。
「……っ!」
不意に、フィアが小さな喉から短い悲鳴を上げた。
彼女が聖剣を手放し、使命に対する迷いを見せたためか、あるいは教会が設定した定刻を迎えたためか。彼女の胸元の刻印がどくどくと不気味な脈動を始め、そこから伸びる副契約の糸が赤黒い光を帯びた。
フィアの小さな身体がくの字に折れ曲がり、石の床にうずくまる。
「フィア!」
クラウスが叫び、娘の背中に手を伸ばした。だが、物理的な接触でこの痛みを和らげることはできない。
フィアへ痛みを与える流れと、遠方へ向かう流れが同時に動いている。だが、その先で何が起きるのかまでは見えない。
「シルヴィア、遮断環を」
「はい!」
私は第三代勇者であるシルヴィアから、彼女が人間領の調査で用いていた魔力遮断のための金属環を受け取った。
床に片膝をつき、フィアの胸元から空間へ向かって伸びる太い副契約の糸へ、素手で直接触れる。
ジリッ、と肉の焦げる嫌な音が響いた。
「ネレイア様!」
エルナの鋭い声が飛ぶが、私は手を離さない。契約の強制執行を第三者が素手で阻めば、その莫大な反動は介入者へと向かう。掌の皮膚が焼け爛れ、同時に視界の端が白く飛ぶような損傷の痛みが脳を打った。他者の契約を強引に迂回すれば、身体を損なうのは当然の理だった。
私は歯を食いしばり、糸の流動を強引に押さえ込みながら、その中継点へ銀色の遮断環を噛ませた。
ガチン、と硬い音を立てて環が閉じる。
赤黒い光の明滅が一時的に止まり、フィアを苛んでいた激痛がふっと和らいだ。
「……はぁっ、はぁっ……」
フィアは床に手をつき、滝のような汗を流しながら荒い息を繰り返している。
「ネレイア殿、村は……村の人たちはどうなった!」
クラウスが血走った目で私に問う。
私は焦げた掌を自身の外套の陰へ隠し、静かに首を振った。
「分かりません。私にできるのは、今ここで作動した魔力の流れを一時的に食い止めることだけです。遮断環が間に合う前に、どれだけの痛みが村へ到達したのか、遠方の結果を知ることは不可能です」
私は、見えることと分かることを混同して安易な気休めは言わない。
契約本体と、それを維持する仕組みを断たない限り、私にできるのは発動を遅らせることだけだ。
クラウスの顔が苦痛に歪んだ。彼は迷うことなく、私に向かって言い放った。
「私が代わる! 私の命でも、残りの寿命でもすべてくれてやる。だから、フィアと村からその契約を私に移してくれ!」
彼が自分を代わりに送るよう求めたのは、これが初めてではないのだろう。娘が選ばれたあの日も、教会に対して同じように懇願したはずだ。
「不可能です。この勇者刻印は、代替を受け付けるような甘い構造にはなっていません」
「だが、このままではフィアが……!」
「だめ……っ!」
突然、床にうずくまっていたフィアが、父の服の裾を力強く掴んで叫んだ。
「お父さんまでいなくなったら、わたし、ひとりぼっちになっちゃう……! お父さんを身代わりにしなきゃいけないなら、わたしが魔王を倒す……!」
フィアの視線が、床の隅に置かれた聖剣へと向かう。恐怖と、父親を失うかもしれないという怒りが、彼女の思考を「役に立たなければ愛されない」という教会の教えへと無理やり引き戻そうとしていた。
クラウスは娘の悲痛な叫びに息を呑み、伸ばしかけた手を止めた。自分が娘を守ろうとして提示した選択が、結果として娘から意思を奪い、教会と同じように彼女を追い詰めていることに気づいたのだ。
食堂の壁際で、歴代の勇者たちが沈黙を保っている。彼らもまた、かつて自分の意思で選ぶ権利すら与えられず、この城へ送り込まれた子どもたちだ。第一代のエルナは静かに目を伏せ、第六代のノエルは苛立たしげに壁を蹴り、第二代のバルトは分厚い手で自分の腕を強く掴んでいた。過去の記憶から、彼らの反応は一様ではない。
私はフィアの目の前にしゃがみ込み、手の届く位置にある重い聖剣と、彼女の震える瞳を交互に見つめた。
「フィア。私の言葉を聞きなさい」
静かな、だが確かな声で告げる。
「剣を持つこともできます」
フィアの目が丸くなる。
「勇者をやめて、剣を持たないと決めてもいい。あるいは、今はまだ何も決めないと選んでもいい」
「……え?」
「私を倒せば村が救われると、教会は言いましたか? それは不確かです。ですが、あなたが勇者をやめれば罰が下るというのは、今ここで証明された通り、事実です」
私は聖剣へ手を伸ばさなかった。
「今は決めない、と言っても構いません」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、食堂に響く。
フィアは聖剣をじっと見つめた。自分の背丈よりも大きな、王国の象徴。それを握れば、もしかしたらすべてが解決するかもしれないという淡い期待。そして、自分を罰するかもしれない恐怖。
だが、彼女はゆっくりと、聖剣から目を離した。
震える両手を自分の膝の上に戻し、小さな声で、しかしはっきりとした口調で言った。
「わたし……今は、剣を持ちません。どうしていいか分からないから……今は、まだ決めない」
勇者を完全に捨てることはできなかった。しかし彼女は初めて、教会の使命を保留し、剣から手を離すという「自分の意思」を示したのだ。
「分かりました。あなたの選択として、確かに受け取りました」
私が頷き、立ち上がろうとした、その時だった。
――ピリッ。
城のさらに外側、夜境の結界の縁で、不自然な魔力の干渉が弾けた。
灰獣の鈍重な気配ではない。統率の取れた、少数の人間たちの気配だ。
「……来ましたね」
私は焦げた掌を軽く握り込み、城門の方向を見据えた。
「人間たちの部隊です。おそらく、教会の回収隊でしょう」
フィアが選んだばかりの小さな決断。副契約を一時停止しただけの綱渡りの状況で、彼女の選択を守り抜くための、現実的で切実な危機が、すぐそこまで迫っていた。




