第42話 国境学校の開校式
勇者制度が解体されてから、一年という月日が流れた。
かつてフィアが聖剣を引きずってたどり着き、崖下から救われたクラウスを迎え入れた魔王城。その城郭の一部を改装して作られた「国境学校」が、今日、開校の日を迎えた。
視界の大半を黒い斑点に覆い尽くされた私の目は、あの日から変わっていない。かつてのように、空間に張り巡らされた契約の糸や魔力の流れを一目で見通す力は永遠に失われた。それでも私は、この不完全な視界のまま、ラウラたち夜の民や人間側の術者たちと地道に連絡を取り合い、灰獣に対する共同防御の維持と領地の統治を一日も休むことなく続けている。
城内の回廊は、朝から怒号と足音でごった返していた。
「バルト、いい加減にしなさい! もう人間の王都からの来賓が到着する時間よ!」
第三代勇者シルヴィアが、びっしりと数字が書き込まれた『予算表』を丸めて、第二代バルトの背中を容赦なく叩きつけた。
「うるせえ! 南棟の階段の『未完成の手すり』の補強が終わってねえんだよ! あんなグラグラの状態で、もし子どもが落ちたらどうする! 安全が確保できねえなら、開校は三日延期だ!」
「予算も職人の雇用期限も今日までよ! 手すりがないなら、大人がそこに立って案内すれば済む話でしょうが!」
彼ら元勇者六人は、医療、工房、物流、記録、宗教史、生活支援の専門家として、この国境学校の運営に携わっている。だが、彼らが集まったからといって、ここが善意だけで調和する理想の教育郷になったわけではない。
第一代のエルナは、かつて自分が苦痛を薬で抑え込んでしまった悔恨からか、子どもの健康管理を過剰に厳格にしすぎ、外で遊びたいと主張する子どもたちの意思確認を巡ってほかの大人たちと真っ向から衝突している。第五代のリーゼが苦心して編纂した『宗教史の教本』は、教会の暗部や信仰の負の側面を隠さず記述したため、人間側の保護者の一部から「過激すぎる」と強い反発を受けていた。
第四代のヨアヒムは、失われた八十七人の記録や真の歴史を教えるための小さな資料館を、神経質なほど細かく整え続けては周囲を呆れさせている。そして第六代のノエルは、年少の子どもたちへの生活案内を任されているものの、「おいそこ走んなガキ、転んで頭打っても知らねえぞ」と口の悪さは相変わらずで、急に穏やかで優しい先生役へと生まれ変わることはなかった。
彼らは確かに有能な専門家だが、同時にそれぞれが抱える不器用さや欠点をそのまま学校運営に持ち込み、日々ぶつかり合いながら不完全な日常を回しているのだ。
開校式の準備が最終段階に入る中、講堂の隅で、第七代勇者だったフィアは一人静かに座っていた。
彼女の手には『削りたての鉛筆』が握られ、膝の上には学校周辺の地形を記した『新しい地図』が広げられている。歩いて距離を測り、目印を数え、何度も線を引き直した地図だ。彼女は測量士を目指して学んでいた。
その時だった。
ガァァン! という無骨な音が、城内に大きく響き渡った。手違いか連絡ミスで、『予定より鳴ってしまう開校の鐘』が突如として打ち鳴らされたのだ。
ビクッ、とフィアの肩が大きく跳ねた。彼女の呼吸が急速に浅くなり、握っていた鉛筆が力なく床に転がり落ちる。
勇者制度が終わって一年が経っても、教会の祈祷や選定を告げていたあの鐘の音への恐怖は、彼女の身体の奥深くから完全に消え去ってはいないのだ。
クラウスは正面から見える位置まで歩み寄り、その場に膝をついた。手は伸ばさない。フィアが小さく頷いてから、ようやく肩を支えた。
私は式典係へ手を上げた。鐘は止まり、講堂の扉が開け放たれる。
数分後。ゆっくりと深く息を吐き出したフィアは、自分で床の鉛筆を拾い上げた。
「……まだ、ちょっと。式、止めたままにして」
フィアは新しい地図に目を落とし、先ほど自分で測った避難経路の線を、定規で一本だけ引き直した。やがて息が整うと、自分から顔を上げた。
「もう戻れる。ごめんじゃなくて……待ってくれて、ありがとう」
「わたし、測量士になりたいの。……誰かを助けるためとか、そういう立派な使命だからじゃなくて。ただ、自分の足で正しい道を知るのが好きだから」
式典が始まり、人間領の村から来た子どもたちと、夜境領の亜人や魔族の子どもたちが、同じ講堂で肩を並べた。
式典の最中、一人の小さな亜人の子どもが転んで膝を擦りむいた。
私が声をかけようと立ち上がりかけたが、その子より少し年上の人間の少年が、壁に貼られたフィアの地図を自分たちの目で読み解き、「『救護室の鍵』はエルナ先生が持ってるはずだ、俺たちで聞きに行こう」と声をかけ合い、大人たちや私を介さずに、自分たちだけで解決して走っていってしまった。
少年は途中で一度こちらを見たが、手を振っただけで救護室へ駆けていった。
私は、式典の進行役が持つ仕事表の束に目を落とした。教師や職員の名前が並ぶ中に、私の名はなかった。
「……」
私は、口元に微かな笑みを浮かべた。しかし同時に、自分の胸の奥に、ぽっかりと冷たい穴が開いたような感覚を覚えた。
彼らはもう、私が先回りして差し出す手を待ってはいない。
それを嬉しいと思った。寂しいとも思った。私は仕事表を閉じ、どちらも口にしなかった。
不完全な開校式が無事に終わり、夕暮れ時。
人間領から列席していた『帰る来賓の荷物』が次々と馬車に積み込まれ、賑やかだった城門前が少しずつ静けさを取り戻していく。
この一年間、人間側との連絡役として王都と魔王城を幾度も往復し、設立交渉に奔走してきたクラウスも、来賓たちを見送っていた。
「ようやく、あなたの城にも子どもの笑い声が馴染んだな」
クラウスが私の隣に立ち、夕日に染まる城壁を見上げて言った。
「ええ。あなたの尽力のおかげです、クラウス」
「私はただの連絡係だ。……それにしても、この一年であちこち飛び回ったせいで、白髪が増えた。あなたたち魔族と違って、人間の時間は短いからな。あと何年、足手まといにならずに動けるか……」
彼は軽い冗談のつもりで笑ったのだろう。寿命差と自身の老い。それは、私たち二人の間に横たわる、決して消すことのできない物理的な現実だ。
しかし、私の表情が微塵も動かず、その死を暗示する冗談で私が全く笑えないのを見て取ると、彼はハッとしたように言葉を途中で飲み込んだ。
「……すまない。妙なことを言った」
気まずい沈黙が流れた後、彼は「馬車の確認をしてくる」と言って足早に去っていった。
私は、人間側の職員たちが去っていく荷車の列をぼんやりと見送っていた。
しかし、ふと気づく。
帰還する者たちの荷物の中に、いつも彼が王都へ持ち帰っていた古びた鞄がない。
彼の個室を通った時、机の上に置かれていた。荷札も、馬車の番号もついていなかった。
最後の馬車が門を出ても、その鞄は城に残ったままだった。




