第41話 死んだ名前を返す日
あの公開裁判から、約四か月が経過した。
秋の冷たい風が吹き始めた王都の大広場で、イレーネ王女が新しい法令の公布文を読み上げていた。
『未成年の戦力化永久禁止』『聖剣の王家と夜境領による共同管理』『あらゆる契約における本人同意と無条件の撤回権』『教会から独立した監査機関の設立』『勇者選定記録の完全公開』、そして『被害者と遺族への補償基金の創設』。
それは、勇者制度を法的、契約的、社会的に再発不能な状態へと解体するための、決定的な新法だった。
国王アルベルト四世と王女イレーネは、公開裁判で示した通り、王家が「知らなかった」という事実を免責の理由にしなかった。王家は教会へ委任していた権限を回収する一方、その運用を王家だけで監督することはせず、独立監査院へ検査権を移した。さらに私的財産の一部を補償基金へ移すための目録を公表した。
しかし、その補償制度を実務として設計する第三代勇者シルヴィアは、執務室で重い葛藤に直面していた。
「……どれだけ言葉を飾っても、金銭を渡せば、それが失われた子どもの命や奪われた時間の『値段』として扱われる危険があるわ」
彼女は出来上がった補償申請の書類を前に、深くため息をついた。その書類の末尾には、あえて大きな『受取拒否欄』が設けられている。金銭で過去を清算されることをよしとしない家族が、教会の恩給のように無理やり金を受け取らされず、明確に国からの補償を撥ね付ける権利を残すためだ。
新法の公布と並行して、慰霊広場の大規模な改修が終わった。
かつて歴代勇者たちの偽りの美談を刻んでいた白亜の慰霊像は撤去され、代わりに巨大な黒い石碑が建てられた。そこには、魔王城から持ち帰られた手紙と、ヨアヒムが照合した記録に基づき、確認済みである八十七人の子どもたちの『本名』が深く刻まれている。
勇者という都合のいい称号で塗り潰されていた死んだ名前が、ついに本人たちのものとして返されたのだ。
だが、石碑の表面には、その八十七人の名前の後に、意図的に広く取られた『空白の記録欄』が残されていた。記録から完全に消し去られ、人数すら確定できない名もなき子どもたちがまだいるという事実を、王国が永遠に忘れないための空白だ。
広場には遺族たちが集まり、かつて魔王城からクラウスが運び出した『未送付の手紙』と、わずかな遺品がそれぞれの手へと返還されていった。
そこにあるのは、涙に暮れる美しい再会ばかりではない。
ある家族は生存していた元勇者と抱き合い、別の家族は手紙だけを受け取って本人の前には姿を見せなかった。国からの補償金だけを事務的に受け取り過去を切り捨てる家族もいれば、金も手紙も「今更遅い」とすべてを拒絶して広場を去る家族もいた。
一人ひとりの選択は異なり、どれが正解と決めることもできない。
第六代勇者のノエルもまた、拠点の一室で一人、封を切られていない一通の手紙を見つめていた。
炉を壊した直後、彼が母ミレーヌに宛てて出した短い手紙への、彼女からの返事だった。
ノエルはそれをじっと睨みつけていたが、やがて封を開けることなく、机の引き出しの奥へとしまい込み、鍵をかけた。彼は母の行為をまだ許していない。だから今は、関係修復も再会も選ばない。だが、手紙を燃やして捨てることもしなかった。彼は自分の未来を復讐だけに消費せず、いつか自分が開けたいと思った時に開けるという、彼自身の選択の余地を残したのだ。
私は、王都の下層区にある古びた長屋の前に立っていた。
視界の大半を黒い斑点に覆われた私の目は、扉の木目すらぼやけてしか見えない。案内役として付き添ってくれたクラウスが、静かに扉をノックした。
出てきたのは、初老の夫婦だった。中央広場の攻防で、幼い候補者を逃がすために命を落とした若兵、アベルの両親だ。
私は彼らの前に、ひび割れたアベルの護衛章を差し出し、ゆっくりと頭を下げた。
「私は、夜境領を統治するネレイア・ヴァルグレンです。……あの日、息子さんは自らの意思で子どもを逃がし、崩落に巻き込まれました。私には、彼と広場の群衆の両方を同時に救う力がなく……群衆を守ることを選び、彼を見捨てました」
私は責任を状況や不運のせいにせず、自分が彼を助けない判断を下したという事実をそのまま伝えた。
アベルの母親の顔が、怒りと悲しみで激しく歪んだ。
「……あんたが、群衆を選んだせいで、息子は死んだのね」
彼女は私の差し出した護衛章を叩き落とした。
「あの子は教会の兵士だった。悪いこともしたかもしれない。でも、あんたが群衆のほうを助けるなんて選ばなければ、あの子は生きて帰ってきたかもしれないじゃないか!」
父親もまた、怒りに震える目で私を睨みつけていた。
彼らにとって、私がどれだけの大義を背負っていようと関係ない。私は彼らの息子を見殺しにした加害者だ。彼らは私の選択を決して許さず、私が謝罪しに来たという行為そのものを受け取ることすら拒絶した。
「……申し訳、ありませんでした」
私はそれ以上の反論も、彼らからの慰めの言葉も求めなかった。自分が奪ったものの重さをそのまま受け止め、私は落ちた護衛章を丁寧に拾い集め、静かにその場を退出した。
王都の街角を歩く私の耳に、怒気を帯びた演説の声が聞こえてきた。
『魔王に騙されるな! 共同防御の初回起動時、防壁が破れて灰獣が侵入したではないか!』
声の主は、あの日の失敗で負傷した市民の家族や、いまだにヴァルターの教義を信奉する一部の神官たちだった。彼らは街の壁に『改革反対』のビラを貼り付け、勇者制度と聖灯炉の復活を声高に求めている。
教会の嘘が暴かれ、新法が公布されても、すべての人々が新しい制度を歓迎しているわけではない。共同防御の失敗で負った傷は、「以前の制度のほうが安全だったのではないか」という疑いを消さずに残していた。
「……ひどいビラだな。剥がすか?」
私の隣を歩くクラウスが、壁のビラを忌々しげに睨んで言った。
「いいえ、残しておきましょう。あれもまた、私たちが向き合わなければならない人間たちの現実です」
私は首を横に振り、懐から一枚の真新しい羊皮紙を取り出した。
それは、イレーネ王女から正式に発行された『建設許可書』だった。
夜境領と人間領の国境地帯。かつての魔王城の敷地の一部を改装し、人間と夜の民の子どもたちが共に学ぶための『国境学校』の設立許可が、ついに下りたのだ。
「エルナたちは、もう荷造りを始めている頃だろう」
クラウスが、少しだけ口元を緩めて言った。
「ええ。彼女たちは、そこで新しい仕事を持っていますから」
勇者制度は終わり、死んだ名前と人生の選択権は、ようやく本人たちの手元に返された。
許されない謝罪も、反対運動も、私の黒く欠けた視界も残る。
私は建設許可書を折り、剥がさずにおいた反対ビラと並べて鞄へしまった。




