第43話 何にもならなくていい
開校式の翌朝、魔王城の廊下には、もう授業へ遅れそうな子どもの足音が響いていた。
工房ではバルトの槌が鳴り、医務室からはエルナの小言が聞こえる。角を曲がった子どもがノエルにぶつかり、二人で同時に悪態をついた。フィアは中庭の端から端まで歩数を数え、昨日の地図へ書き足している。
私が廊下へ出ても、誰も立ち止まって頭を下げなかった。手を振る子はいた。エルナ先生はどこ、と尋ねる子もいた。それだけだった。
私は私室へ戻った。嬉しさの隣に残った寂しさを、まだ誰にも見せたくなかった。
朝の光が差し込む私室の食卓には、二人分の朝食が並べられている。
焼きたての丸パンと、湯気を立てる野菜のスープ。
部屋の隅には、使節団が帰った後も、大きな革の鞄が残っていた。髭剃りと革靴の手入れ道具が、その横に置かれている。
重い木製の扉が開き、クラウスが部屋に入ってきた。
彼は食卓の向かいの席を引き、いつものように静かな動作で腰を下ろす。
「開校式の来賓たちは、無事に国境の検問を越えたようです」
私はスープの皿から目を逸らし、壁際の革鞄を見た。
「王都との連絡役としてのあなたの任期も、これで終わりましたね。帰還のための馬車を、夜の民に手配させましょうか」
クラウスは手元の木製カップに注がれた湯気をじっと見つめ、やがて静かに首を振った。
「馬車は要りません」
「ですが、連絡役の仕事は……」
「終わりました。だから昨日、言うつもりだったんですが」
クラウスはそこでパンを千切った。口には入れない。
「言い損ねました」
「何をです」
「帰らない、と」
「なぜ」
尋ねてから、聞くのが怖かったのだと気づいた。
「役目がなくても、ここにいたい。……あなたと朝を食べたい」
ひどく簡単な言葉だった。だから、役目という逃げ道を挟めなかった。
「……私は魔族で、あなたは人間です」
「知っています」
「あなたは先に老いて、死にます」
「……はい」
「私は、それを見る」
クラウスは答えなかった。カップの縁を親指で拭い、長く息を吐いた。
「そこだけは、どう言っても綺麗になりません」
「ええ」
「マリアを愛していました。今も、消えたとは言えない。だから、あなたを代わりにはできない」
そこでまた黙った。
「すみません。こういう話は、剣より難しい」
「知っています」
今度は少しだけ笑えた。
クラウスは立ち上がらず、食卓の上へ掌を向けた。あの宿屋の夜と同じく、私が触れるまで動かない手だった。
「それでも、残ってもいいですか。ネレイア」
私はその掌へ指を重ねた。
「朝食を残す人は困ります」
「気をつけます」
彼の指が、確かめるように一度だけ閉じた。
その時、控えめなノックの音が扉を叩いた。
クラウスがゆっくりと手を離す。私は居住まいを正し、「入りなさい」と声をかけた。
重い扉を恐る恐る押し開けて入ってきたのは、昨夜到着したばかりの新入生だった。
人間と亜人の血が混じったその小さな子どもは、身体に合わない古い服の裾をぎゅっと握りしめ、極度の緊張で肩を強張らせていた。
子どもは私とクラウスを交互に見上げ、震える声で口を開いた。
「あの……」
「ぼくは、何をすればいいですか。ここに置いてもらうために、ぼくは……何の役に立てばいいですか。掃除でも、荷物運びでもします。だから……」
聞き覚えのある言葉だった。
私は立ち上がり、食卓のそばにあった予備の椅子を引き出した。
大人の背丈に合わせたその椅子は、子どもの足には少し高すぎる。かつて、ひどく空腹だった十一歳の少女がよじ登るようにして座ったのと同じ椅子だ。
私は厨房から運ばれてきたばかりの深皿を手に取り、鍋から温かいスープをたっぷりと注いだ。湯気とともに、肉と根菜を煮込んだ濃厚な香りが立ち上る。丸いパンをその隣に添え、私は椅子の横に立って子どもへ向き直った。
「何もしなくて構いません」
子どもが驚いたように目を瞬かせ、服の裾を握る手の力がわずかに緩む。
「何になるかは、食べて眠ってから考えればいいのです」
私は空いた椅子を引いた。
「まずは座りなさい。スープが冷めてしまいます」




