第39話 勇者刻印、消滅
大神殿の地下で聖灯炉の核が砕け散り、王都を縛っていた教会の支配が崩壊した直後。私たちの身体には、明確で物理的な変化が訪れていた。
第一代から第六代までの元勇者たち、そして第七代のフィアの鎖骨に赤黒く焼き付いていた『勇者刻印』が、まるで水に溶ける古いインクのように、時間差を伴ってゆっくりと薄れていったのだ。
「……消えた」
第一代勇者エルナが、自らの胸元をさすりながら低い声で呟いた。本人たちによる称号の返上、イレーネ王女と国王による旧代理契約の正式無効化、そして魔力源であった聖灯炉の物理的な破壊。三つの条件が揃い、五十年間彼らの命を吸い上げていた拘束は、ついに効力を失った。
副契約については、私にももう見ることができない。夕刻までに各地から届いた報告が代わりになった。元勇者の家族を襲っていた原因不明の痛みが止まり、故郷へ課されていた連帯罰の命令文がただの紙になったと、別々の土地から同じ知らせが届いた。
だが、地下から地上の野戦救護所へと移動した彼らの間に、諸手を挙げた歓喜や、過去がすべて清算されたような安堵の空気は生まれなかった。
エルナの鎖骨から魔力の光は消え去ったが、そこには刻印が長年肉体を焼き続けてきた醜い『火傷痕』が、ケロイド状になって生々しく残ったままだ。彼女は時折、神経を刺す痛みに耐えるように顔を歪めている。
さらに、地上の混乱を知らせる鐘の音が遠くの塔から鳴り響いた瞬間、フィアの小さな身体がビクッと跳ね、恐怖に目を見開いてクラウスの背中に隠れた。
魔法的な刻印が消滅したからといって、身体に刻まれた傷跡や、心を深く支配するトラウマ、そして家族と引き離されて魔王城で過ごした空白の時間が、自動的に元通りに回復するわけではないのだ。
それは、私自身も同じだった。
救護所の天幕の隅で、私はエルナの持っていた小さな灯りによる診察を受けていた。
「……やはり、魔力回路への過負荷による損傷が深すぎます」
エルナは私の両目から灯りを外し、静かに包帯を巻き直しながら言った。
「完全に失明しているわけではありません。物理的な光や物の輪郭は追えている。ですが、以前のように空間に張り巡らされた『契約網』を読み取る能力は……」
「戻らないのですね」
私は、黒い斑点がこびりついたままの自分の視界をゆっくりと瞬きし、彼女の言葉を引き継いだ。
私の『契約視』は、不可逆な損傷を受けた。制度を止めることはできたが、私はすべてを完璧に見通せたわけではなく、アベルという一人の若兵の命を救うことができなかった。失われた力と、救えなかった命の重さが、私の両腕にずしりと残されている。
救護所の外れには、厨房の精霊たちが急ごしらえで作った炊き出しの大きな鍋が置かれていた。
負傷者たちに食事が配られる中、長机の端の空席に、温かい薬膳スープの入った椀が一つだけポツンと置かれている。
崩落した路地から運び込まれた、アベルのための席だった。
「……彼のおかげで、うちの子は助かった。彼は身を呈して教会に抗った、本物の英雄だ」
避難してきた候補者の親の一人が、その椀を見つめて涙ぐみながら手を合わせようとした。しかし、別の市民が冷ややかな声でそれを遮った。
「英雄だと? 彼は教会の兵士として、俺たちの村から子どもを拐っていった回収隊の一員だった男だぞ。最後の最後に命令に背いて子どもを一人助けたからといって、これまでの加担の罪がすべて消えて無垢な英雄になるわけじゃない」
アベルを悼む者たちの間でも、彼を完全な英雄として崇めようとする者と、過去の加害者としての側面を許せずに反発する者が、険悪な顔で対立していた。
「……英雄でも、ただの悪人でもない」
クラウスが、静かに、だが周囲の対立を制するような重い声で口を開いた。
「彼は教会の命令に従って村を襲い、その後、自分の意思で武器を置いた。そして今日、目の前のルクを逃がすために、自らの命を投げ出して崩落に巻き込まれた。……私たちが彼について語れるのは、知っているその行動の事実だけだ」
誰も、彼を自分たちの感情を慰めるためのきれいな物語の枠に押し込めることはできない。
空席に置かれたスープの椀には、結局誰も手をつけることができず、ただ白っぽい湯気だけを立てていた。
「……冷えちまうな」
第二代勇者のバルトが、不器用な手つきでその椀を取り上げ、中身をまだ火の入っている大きな鍋の中へと戻した。
「火を貸せ。あとで怪我人たちに飲ませるために、温め直す」
失われた命の喪失感は、美しい祈りや慰めの言葉によって綺麗に閉じられることはない。冷えた鍋の底で、生者のための火が再び赤々と燃え上がり始めた。
救護用天幕の裏側では、第六代勇者ノエルが、木箱を机代わりにして乱暴にペンを走らせていた。
彼の手元には、小さな羊皮紙の切れ端がある。
「……手紙ですか」
私が声をかけると、ノエルは忌々しげにペンを置き、インクの乾いていない紙片を無造作に折りたたんだ。
「あのお袋に、俺の近況を長々と語ってやる義理はねえよ」
彼が書いたのは、王都のどこかに住む母、ミレーヌへの短い手紙だった。
彼女の住まいを確認して以来、ノエルはずっと母への復讐心と葛藤を抱え続けてきた。彼の怒りはまだ消えていないし、息子の死を名誉だと語って遺族恩給で暮らしていた母を、今すぐ許して抱き合うことなどできるはずもない。
「『俺は生きている。今は会わない。返事があるなら、文書院の私書箱へ送れ』。……書いたのは、それだけだ」
彼は、手紙の中で赦しも再会も一切約束しなかった。ただ、自分が生きているという事実だけを叩きつけ、連絡手段だけを一方的に指定したのだ。
それは決して美しい和解ではない。しかし、彼が自分の未来を、自分を裏切った世界への『復讐』だけに使わないために選んだ、最初の不器用な行動だった。
翌朝。王都の混乱が一時的な小康状態を見せ始めた頃、拠点に一人の王国軍の事務官が訪れた。
彼がイレーネ王女からの使いとして差し出したのは、王家の正式な紋章が入った重々しい封書の束だった。
「……公開裁判の召喚状です」
ヨアヒムがその封を切り、全員に聞こえるように文面を読み上げた。
「約二か月後。王都の大広場にて、大神官ヴァルター・クレメンスおよび、勇者制度に深く関与した教会の全関係者を対象とする、公開裁判が開かれます」
制度は止まった。勇者刻印も、副契約も消えた。
それでも火傷痕は残り、アベルの席は空いたままで、切れた家族の時間は戻らない。
召喚状の末尾には、教会側の罪だけでなく、防壁の再接続で生じた死傷と、私たちの作戦記録も提出せよと記されていた。非殺傷を選んだことも、それで避けられなかった損失も、法廷の外へ置いてはいけないということだ。
私は、黒い斑点の隙間から、クラウスとフィア、そして元勇者たちの顔を見渡した。
私たちはこれから、生き残った者として、その重い責任と向き合うための法廷へ向かうのだ。




