第38話 魔王は神を殺さない
国王とイレーネ王女の連署による『旧代理契約の正式無効化』の文書が、王都全域に向けて公的に読み込まれた。
この宣言により、王国軍の大半が教会の指揮下から完全に離脱し、勇者刻印による強制的な命令系統も大幅にその拘束力を弱めた。
しかし、大神殿の地下深層では、未だに不気味な心音のような稼働音を響かせる巨大な『聖灯炉の核』が、生き残った候補者たちを物理的に繋ぎ止めたまま鎮座していた。
大神官ヴァルターは、炉の中枢となる制御盤の前に立ち、外されることのない大ぶりの聖印をその胸に提げたまま、冷徹に私たちを見下ろしていた。
「王命が下ろうと、物理的な接続は切らせん。……この炉を破壊すれば、王都の防壁は消え、灰獣が民を喰らう。共同防御などという過去の遺物が、今すぐ機能する保証がどこにある?」
彼の言葉は、単なる悪あがきではない。彼が突きつける『防御空白の危険性』は、市民の命を盾にした極めて現実的な脅威だった。
炉を破壊する前に、薄暮盟約による『共同防御』を再接続し、王都を灰獣から守れることを実証しなければならない。
「ラウラ。聞こえますか」
私は、手元に用意した夜境領の通信魔導具に向かって呼びかけた。
『ええ、ネレイア様。こちら夜境領、境界代行ラウラです。いつでも術式の接続に入れます』
王都の大神殿地下では、王女が連れてきた宮廷魔術師たちが、古びた人間用の『術式盤』を展開している。エルナはその後方に救護所を置き、失敗に備えていた。夜境領では、ラウラたちが魔族用の術式盤を起動させている。
六十三年の分断を経て、人間側と夜境側の術者が、再び同じ防壁を構築するための共同作業に入った。
「接続を開始します」
両陣営から同時に魔力が注ぎ込まれる。
しかし、次の瞬間。
「駄目だ、噛み合わない!」
宮廷魔術師の一人が叫んだ。
人間側と夜境側では、半世紀以上の間に、同じ術式を扱うための記法も、指揮系統の言語も全く異なるものへと変質してしまっていたのだ。
魔力の波長が激しく衝突し、接続は弾け飛んだ。
――ビキィッ!
王都の外縁を覆っていた防壁の一部に、ガラスが割れるような鋭い亀裂が走った。
接続の失敗による魔力の乱れが、防壁に短時間の『裂け目』を生じさせてしまったのだ。
王都全域に、灰獣の侵入を知らせる甲高い警報の鐘が鳴り響く。
「灰獣だ! 北の区画に小型の群れが侵入したぞ!」
兵士の怒号が響き、直後、地下の私たちにも伝わるほどの地鳴りと、建物が破壊される音が轟いた。
「ほら見ろ!」
ヴァルターが、勝利を確信したように声を張り上げた。
「これが共同防御の実態だ! 君たちの青臭い理想が、今この瞬間にも市民の血を流させている! すぐに聖灯炉の出力を元に戻せ! でなければ王都は滅びるぞ!」
彼の警告は、皮肉にも現実味を帯びて群衆の間に響いた。迷っていた一部の神官や市民たちが、「やはり魔王の術など信じられない」「炉を動かしてくれ」と悲鳴のような声を上げ始める。
現実に負傷者を運ぶ担架が、次々と地下の野戦救護所へと運び込まれてくる。兵士だけでなく、一般の市民の血も流れていた。
ノエルの手が、剣の柄へかかった。
私が一言命じれば、その刃はヴァルターへ向かうだろう。だが、彼の首を落としても、割れた防壁は塞がらない。共同防御が失敗したという事実だけが残る。
「……接続のズレを修正します。諦めないで」
私は焦る術者たちに向けて、静かに、だが決して後退しない声で告げた。
ここからは、私一人の力で解決できる領域ではない。
『待って。こちらの光が、一拍早く着いているわ』
通信具からラウラの声が飛んだ。
フィアが床へ広げた地図の二本の経路を、指でなぞった。王都側の線のほうが長い。
「同時に始めたら、遠いほうが遅れる。……だから、ぶつかったの?」
「欄外に注記がある」
ヨアヒムが碑文の拓本を灯りへ寄せた。
「人間側は、夜境側より短く一拍先に始める。術式の言葉ではなく、鐘の数で合わせていたんだ」
宮廷魔術師がフィアの地図を覗き込み、ラウラと二度、合図を読み合わせた。
「人間側を一拍先に。やり直す」
その間にも、クラウスとノエルは北区画へ出て、裂け目から入った灰獣を兵士たちと押し留めていた。エルナの救護所には、さらに二つの担架が運び込まれた。
「……今だ!」
宮廷魔術師たちが、修正した順序で術式を再起動した。
今度は、衝突の音はしなかった。
人間側の術式盤と、夜境領の術式盤から伸びた魔力の光が、王都の地下で静かに、そして力強く融合した。
ズゥゥゥン、と。
王都全体を包み込むように、分厚く、圧倒的な密度を持った『共同防壁』が展開されるのが、魔力を感じ取れない私の肌にもはっきりと伝わってきた。
「防壁、再構築完了! 侵入個体は内側に残っています。北区画の各班が交戦中!」
伝令の叫び声に、地下にいたすべての者が息を呑んだ。
共同防御は、一度の失敗と負傷者を出した末に、ようやく実働した。成功の歓声を上げる者はいなかった。救護所から聞こえる呻き声が、その代価を数えていた。
「……馬鹿な。そんな過去の遺物が……」
ヴァルターの顔から、初めて余裕が消え去った。
防御空白を理由に炉を止めない、という主張は退けられた。だが、内側にはまだ灰獣が残り、傷を負った者もいる。ヴァルターはその事実から目を逸らさなかった。
「次も同じように直せると思うな。人間は一度の成功を制度と呼び、一度の失敗で捨てる」
返す言葉を探す間にも、作業班が動いた。
バルトが炉の基部へ二本の遮断杭を打ち込む。工房の職人たちが鎖を巻き、王国兵が左右から引いた。一本目の留め具が裂け、候補者を縛る拘束具から光が消える。二本目は曲がった。バルトが悪態をつき、別の班が梃子を差し込んだ。
三つの班が力を合わせ、ようやく最後の留め具が外れた。エルナの合図で、子どもたちが一人ずつ炉から運び出されていく。
「……私を、殺すがいい」
ヴァルターは炉の核を背にして両腕を広げた。
「ここで私を殺し、王都の守護者を葬った大罪人として、永遠に歴史に名を刻むがいい。……私の血が、いずれ必ずこの愚かな民衆の目を覚まさせる!」
彼は最後まで自身の非を認めず、自らの死をもって殉教の物語を完成させ、炉とともに死ぬ道を作ろうとしていた。
北区画から戻ったノエルが剣を抜いた。
だが、その刃が届くより早く、
「させません」
元第五代勇者のリーゼが、数人の王国兵を率いてヴァルターの背後に回り込み、彼の両腕を冷たい鉄の拘束具で戒めた。
「死んで終わることは許しません。法廷で、あなたの言葉を最後まで記録します」
リーゼの宣告に、ヴァルターは鼻で笑った。
「記録したまえ。灰獣が次に防壁を破った時、民は必ず私の名を呼ぶ」
王国兵がその両腕を取り、生きたまま連行した。
「離れろ!」
バルトの槌が、皆で露出させた最後の楔を打ち抜いた。
聖灯炉の核に幾筋もの亀裂が走る。作業班が一斉に鎖を引くと、核は台座から傾き、石床へ落ちて砕けた。
その瞬間、救出された子どもたちや、元勇者たちの鎖骨に刻まれていた勇者刻印が、パラパラと灰のように剥がれ落ち始めた。
本人による返上、代理契約の正式無効化、そして聖灯炉の破壊。
五十年間、子どもたちの命を縛り続けてきた刻印解除の『三条件』が、今、ここにすべて揃ったのだ。




