第37話 最初の勇者は四十二歳
大神殿地下、薄暗い空間にそびえ立つ薄暮盟約碑の表面を、第四代勇者ヨアヒムと第五代リーゼが慎重になぞっていた。
私の『契約視』は、もはやこの碑文に刻まれた魔力の痕跡を読み取ることはできない。だが、記録官として積み上げてきた彼らの知識が、石に刻まれた古語を現代の言葉へと翻訳していく。
「……やはり、そうだ。これは勇者への加護を誓う碑文ではない」
ヨアヒムが、石碑の特定の区画を指差した。
「アーデルハイト。彼女は『勇者』という呼称ではなく、『境界守護を指揮する人間側の総司令官』としてこの石碑に名を連ねている。……そしてその年齢は、四十二歳。聖剣は、特定の年齢や血統を選ぶものではなく、薄暮盟約のもとで人間と魔族が共同管理し、灰獣という災害から生存を守るための『兵装』だったんだ」
四十二歳。
教会の五十年の教義を根底から覆す数字が、そこには確かに刻まれていた。聖剣は本来、純粋な魂を持つ子どものための特別兵装ではなく、灰獣という災害に対し、隣人の命を守るという意思を持つ者が年齢を問わず手にするための『共同防衛手段』だったのだ。
クラウスが、自分の手の中に残る感触を確かめるように拳を握った。腹帯の上へ反対の手を添える。傷はまだ塞がっていない。
中央広場で彼が聖剣を抜いた時、剣は彼の年齢にも、元騎士団長という肩書にも反応しなかった。光が走ったのは、娘と私の前へ立った、その瞬間だった。
「……年齢や立場ではなく、隣を守るという意思。それが、聖剣を動かす唯一の回路だったのか」
私たちの疑念は確信に変わった。
教会は、大人の持つ『疑う能力』や『拒否する権利』、そして『検証する知識』を恐れたのだ。だからこそ、家族や故郷を人質に取れば言いなりになりやすい子どもだけを選別し、聖剣を『純潔な者だけが持つ資格』へと作り替えてしまった。
その時、石碑の向こうで鉄格子が落ちた。
私たちから隔てられた退路の前に、大神官ヴァルターが立っていた。炉へ通じる昇降路を背にし、こちらからは刃も手も届かない。その顔には、証拠を突きつけられた焦りなど微塵もなかった。
「……歴史とは、勝者が都合よく書き換えるためのキャンバスに過ぎん」
彼は淡々と、穏やかな声音で語り始めた。
「アーデルハイトという指揮官がいたことは認める。だが、それは過去の局所的な成功例に過ぎない。この五十年、王国と魔族の間に平穏が保たれ、王都が灰獣の脅威から守られてきたのは、紛れもなく私の制度が機能してきた結果だ。君たちの求める真実とやらで、この平和を壊せば、再び境界の防壁は瓦解し、灰獣が人々の魂を食らう。君たちはその責任を取れるのか」
「平和、ですか」
私が黒い斑点の残る視界を彼へ向けると、ヨアヒムが教会の内密な内部通達の写しを叩きつけた。
「これは、教会が選定対象を子どもだけに絞るために作成した内部文書だ。そこには『成人は拒否、質問、契約の検証を試みるため、行政運用上、子どもが最適である』と明確に記されている。ヴァルター、あなたの言っていることは平和の維持ではなく、自分たちが支配しやすい対象を選別し、制度を私物化するための合理化に過ぎない」
ヴァルターは文書を一瞥もしない。
「国家も、候補者の家族も、この制度に同意している。教会の救済を受け入れているのが証拠だ。君たちの反乱は、その同意を無視し、自分たちの理想のために市民を危険に晒す、ただの独善的なテロリズムだ」
その時、背後の通路から、第一王女イレーネが王国騎士団を従えて現れた。
「同意? それが正しい同意か否かは、我々が検証するものです」
イレーネは、国王の玉璽が押された連署文書を広げた。
「教会による王家への代理同意の強制。候補者の身柄拘束の違法性。そして、隠蔽されていた薄暮盟約の原本と、これまでの記録改変の証拠。すべて王家として受理した。……ヴァルター、これ以上、この制度を王国の法の下で維持することは不可能だ」
ヴァルターの表情が、わずかに歪んだ。
彼は依然として、自分が行ってきたことが正義であると信じて疑わない。大人の反抗を排し、子どもの犠牲で多数の秩序を守る。それが彼にとっての、揺るぎない世界秩序なのだ。
「王女殿下、君たちに共同防御が機能するか否かの実証実験をする余裕はあるのかね? 君たちが一度でも失敗すれば、王国の民は必ず私の制度へと回帰する。その時、君たちはより大きな破滅を招くことになるぞ」
彼は敗北を認めず、制度そのものが民衆の信頼という脆い鎖に繋がれていることを突きつけた。
国王とイレーネの署名は揃った。あとは王都の記録盤と聖灯炉の中枢へ、この文書を正式に読み込ませなければ効力を発しない。
「その一刻が、君たちの理想の値段になる」
ヴァルターはそう言い残し、鉄格子の向こうの昇降路へ消えた。
追おうとした騎士たちを、炉の振動が押し返した。床の奥で、候補者たちから吸い上げた命が脈を打っている。
四十二歳という名は取り戻した。子どもだけを選んだ理由も、教会自身の文書で確定した。
けれど紙に署名が揃っただけでは、目の前の鎖は一本も外れなかった。




